資治通鑑魏紀二 世祖文皇帝下 黃初五年 五年 224年

春から夏 学校制度の復興と呉蜀の修好深化

  • 春二月、皇帝は許昌から洛陽へ帰還した。
  • 後漢末以来すたれていた学制を改め、夏四月には初めて太学を立て、博士を置き、漢制にならって五経の課試法を整えた。
  • 呉王は輔義中郎将の張温を蜀へ遣わした。以後、呉蜀の信使は絶えなくなった。
  • 呉では国政上の必要に応じて、孫権がしばしば陸遜に諸葛亮へ伝えるべきことを語らせ、また自ら蜀主や諸葛亮へ送る書簡も、先に陸遜に見せて軽重や可否を点検させ、必要なら改めてから封じた。
  • 蜀もまた鄧芝を再び呉へ遣わした。孫権は、もし天下が太平となれば二主が天下を分治するのも楽しいではないかと言ったが、鄧芝は、天に二日なく地に二王はない、もし魏を併せた後に天命がどちらにあるか見極めればよいのであって、その時こそ戦いが始まるのだと率直に答えた。孫権はその誠実さを笑って賞した。

秋の東巡と対呉遠征の不発

  • 秋七月、皇帝は東巡して許昌に至った。
  • 皇帝は大々的に兵を興して呉を伐とうとしたが、侍中辛毗は、天下は新たに定まったばかりで地は広く民は少なく、今は養民・屯田を優先して十年後に用兵すべきだと諫めた。皇帝は、では敵を子孫に残すのかと詰めたが、辛毗は時機を見るべきだと答えた。
  • 皇帝は従わず、尚書僕射司馬懿を許昌に留めて守らせ、自ら八月に水軍を率いて龍舟に乗り、蔡水・潁水から淮水へ出て寿春に向かった。
  • 九月、広陵へ着くと、呉の徐盛は石頭から江乗に至るまで木を植え葦で覆って疑城や仮楼を連ね、一夜で数百里にわたる防備を整え、さらに大船団を江上に浮かべた。
  • 江水は増しており、皇帝は眺めて、魏には多くの騎兵があってもここでは用いにくく、今は攻め図るべきではないと嘆いた。
  • 暴風で龍舟が漂い、あわや覆没しかける場面もあった。群臣は、皇帝が親征した以上、孫権は必ず自ら出てくるとみたが、劉曄は、孫権は皇帝が万乗の身をもって江湖を超えて自身を誘い出そうとしていると考え、別将に備えさせるだけで、軽々しく進退しないだろうと見た。果たして孫権は現れず、皇帝は撤兵した。
  • その頃、曹休は降人の言として、孫権がすでに濡須口にいると報じたが、中領軍衛臻は、孫権が長江を恃んで虚偽の降辞を作らせたに違いないと見抜き、調べると実際に守将の偽作だった。

呉の張温・暨豔らの失脚

  • 張温は若くして俊才の名が高く、顧雍に当代に並ぶ者なしと評価され、諸葛亮からも重んじられた。
  • 張温が推した同郡の暨豔は選部尚書となり、清議を好んで百官を弾劾し、三署にも厳しい査定を行って、多くを降格させた。貪鄙・卑劣とみなした者は軍吏として営府に回し、その欠点を広く言い立てた。
  • 陸遜、陸瑁、侍御史朱拠らは、王業創始の時は人材の瑕を捨てて用いるべきであり、過度に月旦評のような人物批評に頼るべきでない、郭泰のように包容して人を活かす道を取るべきだと諫めた。
  • しかし暨豔は従わず、怨望が道に満ちた。やがて暨豔と選曹郎徐彪は私情で人事を左右したと訴えられ、いずれも罪を得て自殺させられた。張温も彼らと意を同じくしたことで連座し、本郡に放還されて下吏同然の扱いを受け、家で死んだ。
  • 張温が権勢を振るった当初、余姚の虞俊は、才はあるが知恵が足りず、外華はあっても実がなく、怨みを集めて家を覆す禍いが見えると評していたが、ほどなくその通りになった。

冬 北辺の鮮卑情勢

  • 冬十月、皇帝は許昌へ帰った。
  • 十一月戊申晦、日食があった。
  • 鮮卑の軻比能は歩度根の兄抉羅韓を誘って殺させ、これによって歩度根との対立は深まった。
  • 歩度根の勢力はしだいに弱まり、一万余落を率いて太原・雁門に拠り、この年、朝廷へ来て貢献した。
  • これに対して軻比能はさらに強大となり、東部の大人素利を攻めた。護烏丸校尉田豫はその虚を突いて後方を衝き、軻比能が別帥瑣奴を派して防がせると、これを破った。以後、軻比能の配下は離反を見せながらも、しばしば辺境を侵し、幽州・并州を苦しめた。