資治通鑑魏紀二 世祖文皇帝下 黃初六年 六年 225年

春 魏の人事と諸葛亮の南征開始

  • 春二月、詔して陳羣を鎮軍大将軍として車駕に従わせ、衆軍を総監しつつ録尚書事を兼ねさせた。司馬懿は撫軍大将軍となり、許昌に留まって後台文書を督した。
  • 三月、皇帝は召陵へ行幸し、討虜渠を開通させた。これは呉征討を見据えた水路整備である。
  • 乙巳、許昌へ帰還した。
  • 并州刺史梁習は軻比能を討って大破した。
  • 蜀では諸葛亮が雍闓討伐のため軍を率いて出発した。参軍馬謖が数十里見送り、南中は険遠で服させてもすぐ再叛するから、皆殺しにするより心服させることを第一とすべきだと進言した。
  • 馬謖は、諸葛亮が今後北伐を志す以上、南中の反乱を一時の武力で押さえるだけでは後患が尽きないので、攻城より攻心を重んずるべきだと説き、諸葛亮もその意見を採った。

皇帝の再征呉と鮑勛左遷

  • 辛未、皇帝は再び舟師で呉を征しようとした。群臣が議する中、宮正鮑勛は、呉蜀は唇歯の関係にあり山水に拠っているため抜きがたく、昨年の龍舟漂蕩は宗廟を危うくしかけた、今また遠征を重ねて中国を空耗させるのは不可だと諫めた。
  • 皇帝は怒って鮑勛を治書執法へ左遷した。鮑勛は鮑信の子である。
  • 夏五月戊申、皇帝は譙へ行幸した。

呉の宰相人事と顧雍の政治

  • 呉の丞相孫劭が死んだ。呉で丞相設置が議された当初も、また孫劭の死後も、群臣は張昭を推したが、孫権は、張昭は剛直で責任の重い職にはかえって向かず、もし意見を用いなければ怨咎が生じるとして用いなかった。
  • 六月、太常顧雍を丞相とし、尚書事を平せしめた。顧雍は寡言で、発言すれば必ず要点を得た。宴席でも酒席の失態を見逃さないため、人々は勝手放題に振る舞えなかった。
  • 顧雍は官人任用において文武の将吏をそれぞれの才に応じて用い、特定の好悪に偏らなかった。民間の事情や政務上の当否をひそかに上聞し、採用されれば功を君上に帰し、退けられても漏らさなかったため、孫権の信任は厚かった。
  • ただし朝廷での建言は慎重で、中書郎が相談に来て意にかなえば酒食を設けて詳論し、そうでなければ顔色を正して黙し、それだけで孫権は可否を察した。
  • 江辺の諸将が功名を求めて掩襲策を上げると、顧雍は、小利に戒める兵法に反し、国のためでなく身のためだといって制止を勧め、孫権は従った。

利成の反乱、蜀の南中平定

  • 利成郡で兵の蔡方らが反し、太守徐質を殺して郡人唐咨を主に推した。朝廷は屯騎校尉任福らに討伐させて平定した。唐咨は海路で呉へ逃れ、呉で将軍となった。
  • 秋七月、皇子曹鑒を東武陽王に立てた。
  • 蜀の諸葛亮は南中へ進み、各地で勝利した。自らは越嶲から入り、雍闓・高定を斬った。
  • 庲降督李恢は益州方面から、門下督馬忠は牂柯方面から入り、諸県を撃破して諸葛亮と合流した。
  • 孟獲は雍闓の残党を収めて諸葛亮に抗した。諸葛亮は彼を生け捕りにさせ、軍陣を見せたうえで感想を問うた。孟獲は、以前は実情を知らなかったから敗れたが、今見るかぎり勝てそうだと言ったため、諸葛亮はあえて放して再戦させた。
  • こうして諸葛亮は七たび孟獲を捕らえ、七たび放した。ついに孟獲は、あなたの威は天の威であり、南人はもう反きませんと服し、諸葛亮は滇地に至って四郡を平定した。
  • 諸葛亮はその土地の渠率をそのまま用いた。外地の人間を残して統治させる案もあったが、兵糧・駐兵・夷漢の不信の三点から難しいとして退けた。
  • そこで南中の俊傑や孟獲らを官属に取り立て、金銀・丹漆・耕牛・戦馬を徴発して軍国の用に充てた。このため、諸葛亮の生前、夷は再び叛かなかった。

秋から冬 再度の広陵遠征と撤退

  • 八月、皇帝は譙から渦水を下って淮に入った。
  • 尚書蔣済は水路が通じにくいと上表したが、皇帝は従わなかった。
  • 冬十月、広陵故城に至り、長江を前に十余万の兵と数百里の旌旗を並べて渡江の志を示した。呉は厳重に守備したが、寒さで氷が張り、舟は江に入れなかった。皇帝は波涛の激しさを見て、これぞ天が南北を限るところだと嘆き、ついに帰還を決めた。
  • 孫韶は高寿ら五百の敢死士を夜の近道に伏せさせ、皇帝の一行を襲わせた。皇帝は大いに驚き、高寿らは副車の羽蓋を奪って帰った。
  • 戦船数千は浅水に滞って動けず、ここに駐兵して屯田すべきだという議も出たが、蔣済は、東は湖に近く北は淮に臨み、水が増せば賊に襲われやすく安屯できないと論じ、皇帝も従った。
  • 精湖まで帰ると水がさらに尽き、船を蔣済に託して後送させた。蔣済は地を掘って幾筋もの水路をつくり、土で築いた堤で湖水をせき止め、一斉に開放して船を淮へ引き入れ、ようやく帰還を実現した。
  • 十一月、東武陽王曹鑒が死去した。
  • 十二月、呉の番陽の賊彭綺が郡県を攻め落とし、数万人を集めた。