資治通鑑魏紀一 世祖文皇帝上 黄初 二年 221年
春正月 三月 孔子後裔の封建と銭制
- 春正月、議郎孔羨を宗聖侯として孔子の祭祀を奉じさせた。これは後漢以来の孔子裔への封建の継続を、魏が改めて整えたものである。
- 三月、公孫恭を車騎将軍に加えた。
- また、五銖銭を復活させた。
蜀での漢帝死去説と劉備の即位
- 蜀では、漢帝がすでに害されたとの風聞が広まり、漢中王劉備は喪を発して孝愍皇帝と諡した。
- 群臣はこぞって祥瑞や天命を挙げ、劉備に帝号を称するよう勧めた。
- これに対し前部司馬費詩は、曹操父子が主君を脅かして帝位を奪ったからこそ討伐を掲げたのに、大敵を滅ぼさぬうちに自立しては人心に疑いを生む、漢高祖でさえまず秦を破ってもなお推譲したではないかと諫めた。
- 劉備は不快として、費詩を永昌郡の従事へ左遷した。
- 夏四月丙午、劉備は武担の南で帝位に即き、大赦を行い、年号を章武とした。諸葛亮を丞相、許靖を司徒とした。
司馬光による正統論
- この年の記事の中で、司馬光は長い議論を挟み、国家の興亡を記すにあたって、分裂時代の諸国を一方的に正統・僭偽と決めつけることの難しさを論じる。
- 三国・南北朝・五代のように並立した政権は、土地や徳、旧都の所在、授受関係など、いずれの基準でも簡単には優劣を定められないとし、自著では国家の盛衰と民生の休戚を述べて鑑戒とすることを主眼とする、と説明する。
- ただし紀年の便宜上、漢から魏、晋から宋、さらに陳・隋、唐から梁・周を経て宋に至る系統に沿って年号を用いるのであって、それは必ずしも一方を正統視し他方を卑しめるためではないとする。
呉と蜀の宮廷
- 孫権は公安から鄂へ移り、その地名を武昌と改めた。
- 五月辛巳、蜀では呉氏を皇后とし、子の劉禅を皇太子に立て、張飛の娘を皇太子妃とした。呉皇后はもと劉璋の兄劉瑁の妻で、偏将軍呉懿の妹である。
六月 甄氏の死と祭祀
- 曹丕がまだ五官中郎将だったころ、袁熙の妻であった中山甄氏の美しさを見初め、曹操がこれを娶らせた。甄氏は曹叡を生んだ。
- しかし皇帝即位後、安平の郭貴嬪が寵愛を受け、甄夫人は鄴に留め置かれて召されず、不満の言葉を漏らしたため、郭貴嬪がこれを讒した。
- 六月丁卯、曹丕は使者を送り、甄夫人に死を命じた。
- 宗廟が鄴にあるため、曹丕は洛陽の建始殿で曹操を家人の礼で祀った。
- この月の晦日には日食があり、官は太尉の免職を求めたが、曹丕は災異は君主自身を責めるもので、家臣へ罪を転嫁するのは禹・湯の精神に反するとして認めず、今後は天地の災いで三公を弾劾するなと詔した。
劉備の対呉戦準備と張飛の死
- 劉備は子の劉永を魯王、劉理を梁王に立てた。
- 劉備は関羽の死を恥として孫権を討とうとしたが、趙雲は、国賊は曹操父子であって孫権ではなく、まず魏を滅ぼせば呉は自ずと服すと諫めた。河渭上流を押さえて関中から進めば、関東の義士も王師を迎えるだろうから、呉と先に戦うべきではないと論じた。
- 群臣も多く諫めたが、劉備は聞き入れなかった。広漢の処士秦宓も、天時が不利だと述べて投獄されたのち、ようやく赦された。
- 張飛は雄猛で関羽に次ぐ将で、兵卒には粗暴だった。劉備は、日々左右の健児を鞭打ちながら身辺に置くのは災いを招くとたびたび戒めたが、張飛は改めなかった。
- 呉征討のため、張飛は閬中から江州へ一万人を率いて合流する予定だったが、出発直前に帳下の張達・范彊に殺され、首級はそのまま孫権へ送られた。劉備は報告を受けると、張飛は死んだなと言ったという。
- 史評は、関羽・張飛はいずれも万人敵の名将だったが、関羽は剛直にして自負が強く、張飛は苛烈で恩が薄く、それが敗因になったとする。
秋七月 蜀呉戦の開戦
- 秋七月、劉備は自ら諸軍を率いて孫権を討った。
- 孫権は和議を求め、諸葛瑾は書簡で、関羽と先帝のどちらが親しいか、荊州と天下のどちらが重いか、仇を討つ順序をよく考えれば答えは明らかだと説いたが、劉備は従わなかった。
- 諸葛瑾が私かに劉備へ通じているとの噂も出たが、孫権は、諸葛瑾と自分の信義は死生にわたって変わらず、彼が裏切ることはあり得ないと断言した。陸遜も諸葛瑾への疑いを解くべきだと上表し、孫権はその上表をそのまま諸葛瑾へ示した。
- 劉備軍は呉班・馮習が李異・劉阿らを巫で破り、秭帰へ進み、兵は四万余となった。武陵の蛮夷も兵を請うた。
- 孫権は鎮西将軍陸遜を大都督とし、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら五万人に拒戦させた。
曹魏の封建と対呉判断
- 曹丕は弟たちの多くを侯から公へ進め、曹植も安郷侯から甄城侯に改封した。
- また陵雲台を築いた。
- 以前、曹丕が群臣に、劉備は関羽の仇討ちのため出兵するだろうかと問うたとき、多くは蜀は小国で名将は関羽のみ、その敗死後に出兵の余力はないと答えた。
- ただ劉曄だけは、劉備は威武によって国威を示そうとする人物で、しかも関羽とは君臣でありながら父子同然の恩がある以上、報復の軍を起こさずにはいられないと読み、劉備の出兵を予言した。
八月 孫権の称臣と劉曄の献策
- 八月、孫権は使者を送り、へりくだった文言で称臣し、于禁らを送り返した。
- 朝臣はみな慶賀したが、劉曄だけは、これは劉備の大軍を恐れ、なおかつ魏がその隙に乗じて攻めるのを防ぐための見せかけの降伏だと見抜いた。
- 劉曄は、今こそ魏が大軍で長江を渡って呉を襲い、外から蜀、内から魏で挟めば、呉は十日も保たず滅びる、呉が滅べば蜀も孤立して長くは持たないと説いた。
- しかし曹丕は、いったん称臣した相手を討てば天下の帰服しようとする者の心を疑わせるとして、この策を採らなかった。
- 劉曄は、蜀は遠く呉は近いから、蜀は魏が呉を攻めても怒りを抑えて進軍し、呉を助ける方向には転じないだろうと重ねて説いたが、やはり聞き入れられなかった。
于禁の帰還と屈辱
- 帰還した于禁は髪も髭も白く、やつれ果てていた。曹丕は荀林父・孟明視の先例を引いて慰め、安遠将軍に任じた。
- ただし鄴の高陵へ参拝させる際、陵屋に関羽が龐徳を打ち破り、于禁が屈服した場面を描かせておいたため、于禁は恥と怒りから発病し、死んだ。
- 司馬光は、敗れて生きて帰った于禁は処分してもよかったが、陵墓の壁画で辱めるのは君主の道に反すると批判している。
孫権を呉王に封ず
- 丁巳、太常邢貞が策書を持って呉に赴き、孫権を呉王とし、九錫を加えた。
- 劉曄はこれにも反対し、孫権はもともと漢の将軍・列侯にすぎず、ただちに王とすれば天子と一段しか差がなく礼制が乱れ、江南の士民にも君臣関係を定着させてしまい、虎に翼をつけるようなものだと論じた。
- さらに、孫権は外では魏に礼を尽くしつつ国内では無礼に振る舞い、いざ討伐されれば魏の横暴として民心をまとめるだろうと予測したが、曹丕はまたしても聞かなかった。
呉の反応と魏の警戒
- 諸将が呉の内附を受けて緩みがちになる中、征南大将軍夏侯尚だけは攻守の備えをいっそう固めた。
- 山陽の曹偉は、白衣で呉王に私書を送り、賄賂を得て京師とつなごうとしたため、発覚して処刑された。
- 孫権は武昌の城を築いた。
冬十月 楊彪の待遇と五銖銭停止
- 曹丕はかつて楊彪を太尉にしようとしたが、楊彪は、漢の三公でありながら乱世に何の功も立てられなかった者が、さらに魏臣となっても栄誉ではないと辞退した。そこで任命は取りやめとなった。
- 十月己亥の朔旦、公卿は朝賀に楊彪を客分として迎え、延年杖を与え、几に凭れさせ、布単衣と皮弁の姿で参内させた。光禄大夫・中二千石とし、朝見では三公に次ぐ席次とされ、門前には行馬まで設けられた。楊彪は八十四歳で没した。
- 穀価が高騰したため、五銖銭は再び停止された。
涼州の再乱と張既の平定
- 涼州では盧水胡の治元多らが反乱し、河西一帯が大きく乱れた。鄒岐が召還され、京兆尹張既が涼州刺史に任じられ、夏侯儒・費曜らが後続とされた。
- 胡の騎兵七千余が鸇陰口で張既を迎え撃とうとしたが、張既はわざと鸇陰経由を吹聴しておき、ひそかに且次経由で武威へ入ったので、胡は神がかりと恐れ、顕美へ引き返した。
- 張既は武威に拠ると、諸将の反対を押し切ってすぐに進軍した。敵に糧を頼るほかなく、退かせれば山中にこもって再び辺境を荒らすだけだとして、一日敵を放てば数世の患いになると説いた。
- 十一月、胡は大風に乗じて火攻めを企てたが、張既は夜陰に三千の伏兵を隠し、成公英に陽動の騎兵を率いさせて退却を装わせた。胡が追ってきたところで伏兵を発し、前後から挟撃して大破した。斬首・捕虜は万を数え、河西は平定された。
- のち西平で麴光が太守を殺して反乱すると、諸将は討伐を主張したが、張既は郡民まで敵に回すべきでないとして、まず羌胡に賞を約して麴光を襲わせ、事情を知らず加担した者は赦すと布告した。すると部党が麴光の首を送ってきて、残余は安堵した。
呉王受封と江東の士気
- 邢貞が呉へ到着すると、呉の側では本来なら上将軍・九州伯のような称号で足りるのであって、魏の呉王封受はどうかとの議論もあった。孫権は、沛公も項羽から漢王に封ぜられたではないか、時宜に過ぎないとして受け入れた。
- 孫権は都亭侯の身分でいた邢貞が車から下りないのを見て、張昭が礼法に反すると責めたので、邢貞はあわてて下車した。
- 徐盛は、国のために許洛や巴蜀を併呑できず、かえって自君が魏使と盟を結ぶ形になったことを恥じて涙を流した。邢貞は、江東の将相がこの気概なら長く人の下にはいまいと評した。
趙咨の応答と魏の珍物要求
- 孫権は中大夫趙咨を魏へ遣わして謝恩させた。曹丕が孫権をどんな君主かと問うと、趙咨は、魯粛や呂蒙の登用、于禁を害さなかったこと、流血少なく荊州を取ったこと、三州を押さえて天下をにらむことなどを挙げて、聡明仁智・雄略の主と答えた。
- 呉は征伐可能かとの問いには、大国には征伐の兵があり、小国には守る備えがあるとかわした。呉にどれほどの人材がいるかと聞かれると、優秀な者は八、九十人、並の者なら車に載せ斗で量れないほどいると述べた。
- 曹丕は呉へ、雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・玳瑁・孔雀・翡翠・闘鴨・長鳴鶏などの珍物を求めた。
- 呉の群臣は、荊・揚二州の定まった貢納品以外を求めるのは礼に反するとして拒否を主張したが、孫権は、西北で戦いが続く今、これらは自分にとって瓦石同然であり惜しむに足らぬ、しかも魏帝はまだ喪中なのにこのような要求をするほどだから礼を語る相手ではないとして、すべて与えた。
呉太子孫登と武昌の宴
- 孫権は子の孫登を太子とし、諸葛恪・張休・顧譚・陳表を中庶子として詩書と騎射を学ばせ、「四友」と称した。孫登は僚属を布衣に近い礼で遇した。
- 十二月、曹丕は東巡した。
- 曹丕は孫登を万戸侯に封じようとしたが、孫権は幼少を理由に辞退し、西曹掾沈珩を遣わして謝恩した。
- 沈珩は、呉は魏が東征してきても旧盟を頼みにして疑っていないが、もし盟約を破られれば備えはあると答え、また太子来朝の件も自分の知るところではないと巧みにかわした。
- 武昌の釣台で、孫権が大酔し、水を群臣に浴びせて酔って台から落ちるまで飲もうと言ったところ、張昭は車中へ退いて抗議した。孫権が戯れだと宥めると、張昭は紂王の酒池肉林も当人たちは楽しみと思っていたのだと諫めたため、孫権は恥じて宴をやめた。
- 別の宴で虞翻が酔ったふりをして諫めようとすると、孫権は怒って剣を取ったが、大司農劉基が、三爵を越えた末に善士を殺しては天下の評判を失うと諫め、孫権も、堯舜と比肩したい自分が曹操を手本にしてはならぬと気づき、虞翻を許した。その後、酒席での「殺せ」という命令は実行しないよう左右に命じた。
北辺の鮮卑・烏桓
- 曹操が蹋頓を破ってから烏桓は衰え、鮮卑の歩度根・軻比能・素利・彌加・厥機らが閻柔を通じて朝貢と交易を求めていた。曹操は彼らを王として遇した。
- とりわけ軻比能は小部族の出ながら勇健・廉平で衆望を集め、雲中・五原以東から遼水に至る広い地域で大勢力となった。
- 曹丕は牽招を護鮮卑校尉、田豫を護烏桓校尉とし、辺境の鎮撫に当たらせた。