資治通鑑魏紀一 世祖文皇帝上 黄初 元年 220年
春正月 曹操の死と魏王継承
- 春正月、武王曹操が洛陽に到着したのち没した。曹操は人物鑑識に優れ、身分の低い者からも才を抜き出して登用し、戦場では平静でありながら決断の時には勢い鋭く、功には惜しまず賞を与え、法には厳格であった。倹約を好み、華美を避けたことで群雄を削り、天下の大半を平定したと総括される。
- この時、太子曹丕は鄴にいた。動揺した群臣の中には曹操の死を秘して混乱を防ごうとする者もいたが、賈逵は隠し通せないとして喪を発するよう主張した。
- また、各城の守備を曹氏の郷里である譙・沛の者に入れ替えるべきだという意見も出たが、魏郡太守徐宣が、いまは天下がほぼ統一され人々は節義を尽くそうとしているのに、郷党だけを信用すれば宿衛の士気を損なうと強く反対し、中止となった。
- 青州兵が勝手に太鼓を打ち鳴らして連れ立ち離脱しようとした時、武力で止めるべきだとの声があったが、賈逵はこれを退け、通行先ごとに食糧を支給する命令書を出して自然に収めさせた。
太子曹丕の即位準備
- 鄢陵侯曹彰が長安から駆けつけ、先王の璽綬の所在を賈逵に尋ねたが、賈逵は、国には正式な後継者がいる以上、あなたが問うべきことではないと厳しく退けた。
- 喪報が鄴に届くと、太子曹丕は泣きやまなかったが、中庶子司馬孚が、天下は殿下を頼りにしているのであって、ただ一人の子として泣くべき立場ではないと諫め、ようやく曹丕は泣き止んだ。
- 群臣が列を失って泣き崩れる中でも、司馬孚は朝廷で声を張り、早く後継を立てて天下を鎮めるべきだとして、喪事と警備の秩序を立て直した。
- 群臣の中には、漢帝からの正式な命を待つべきだという意見もあったが、尚書陳矯は、曹操が外地で死んだ今、一日も早く太子が即位しなければ遠近の人心が離れ、しかも曹彰がそばにいる以上、変事が起これば社稷が危ういと説いた。
- そこで王后の令によって、ただちに曹丕を魏王位に就ける手続きが整えられ、大赦が行われた。ほどなく漢帝も御史大夫華歆を遣わし、曹丕に丞相印綬・魏王璽綬を授け、冀州牧を兼ねさせた。
- これにより王后は王太后となり、年号は延康と改められた。
二月 人事と曹操の葬儀
- 二月、日食があった。
- 賈詡を太尉、華歆を相国、王朗を御史大夫とした。
- 武王曹操は高陵に葬られた。
- 曹彰ら諸弟はそれぞれ封国へ移された。
- 臨菑侯曹植については、監国謁者の灌均が、酒に酔って礼を失い、使者を脅かしたと、上意に迎合して奏上した。これにより曹植は安郷侯へ降格された。
- あわせて、曹植に近かった丁儀・丁廙兄弟とその一族の男子が処刑された。
- 後代の論では、曹植らが野心を抱いたのは生来の性質というよりも、曹操が早くから明確に抑えなかったためであり、楊修や丁儀のような人物まで巻き添えにしたのは痛ましいと評している。
散騎常侍の設置と宦官制限
- この年、散騎常侍・散騎侍郎が新設され、各四人ずつ置かれた。散騎常侍は諫言をつかさどる顕職となった。
- 宦官が就ける官は、諸署令までに限ることが定められ、その制限を金策に記して石室に収めた。
- 新王の側近職を旧来の近臣だけで固めようとする動きがあったが、司馬孚はこれに反対し、国内の英才を広く選ぶべきだとした。
九品中正法の創設
- 尚書陳羣は、これまでの中央の人材選抜では人物を十分に拾いきれないとして、九品官人法を創設した。
- 州郡ごとに中正を置き、人物を見分けて等級づけし、その評価を官吏登用の基礎とした。
夏五月 河西の反乱と蘇則の鎮圧
- 漢帝は曹嵩を太王、丁夫人を太王后と追尊した。
- 安定太守鄒岐が涼州刺史に任じられたが、西平の麴演が周辺郡と結んで反乱し、張掖では張進、酒泉では黄華らが呼応して太守を称した。さらに武威では三種胡も再び叛いた。
- 武威太守母丘興が救援を求めると、金城太守・護羌校尉蘇則は、賊は寄せ集めで同心ではないから、今こそ間隙を衝いて討つべきだと判断し、命令違反の疑いを承知で西進した。
- 蘇則は三種胡を降し、母丘興とともに張進を攻めた。麴演は援軍を装って近づいたが、蘇則はこれを見抜いて誘い出し斬殺し、軍に示したので、党与は離散した。
- その後、張掖を包囲して張進を斬り、黄華も恐れて降伏した。こうして河西は平定された。
- 燉煌では太守馬艾の死後、功曹張恭が長史の事務を代行していた。張恭の子張就は中央へ新太守派遣を求めていたが、黄華・張進の反乱に巻き込まれて人質となった。それでも張就は父に、私情で退かず、忠義を守って敵を挟撃せよと書き送った。
- 張恭はこれに応えて兵を動かし、別働隊を北塞経由で新太守尹奉の出迎えに向かわせた。黄華は張進救援にも動けず、ついに降った。張就も無事救出され、張恭は関内侯に封じられた。
夏六月から秋七月 南巡と孟達の帰順
- 六月、魏王曹丕は軍を率いて南巡した。
- 七月、孫権は使者を送り、献上を行った。
- 蜀の将孟達は上庸に駐屯していたが、副軍中郎将劉封と不和となり、圧迫を受けたため、部曲四千余家を率いて魏へ降った。
- 曹丕は孟達を高く評価し、同じ車に乗せるほど厚遇し、散騎常侍・建武将軍とし、平陽亭侯に封じた。さらに房陵・上庸・西城の三郡を合わせて新城郡とし、孟達にその太守を任せ、西南方面を委ねた。
- これに対して行軍長史劉曄は、孟達は恩義より利得を追う人物で、しかも才に驕り策を好むから、いずれ必ず変を起こすと警告したが、曹丕は採用しなかった。
- 征南将軍夏侯尚、右将軍徐晃らは孟達とともに劉封を襲い、上庸太守申耽も劉封に背いて降った。劉封は敗れて成都へ逃げ帰り、のち諸葛亮の意見もあって死を賜った。
- また、武都の氐王楊僕が一族を率いて帰附した。
秋七月 譙での大饗と賈逵の善政
- 曹丕は譙に至り、六軍および譙の父老を大いにもてなし、音楽・百戯を催して日暮れまで祝宴を開いた。
- 後代の論者は、父の喪のさなかに盛大な宴を開いたことを、古礼を破り王化の基を損ねるものとして厳しく批判し、のち漢から禅譲を受ける際に二女を納れたこととあわせ、短命の兆しだと論じている。
- 曹丕は賈逵を豫州刺史とした。
- 天下がまだ安定しきらない中、刺史の多くは郡を十分に統御できなかったが、賈逵は、州の役目は下級官吏の不法を摘発することにあり、盗賊や慢法を見逃していては天下の規範にならないとし、法を破る者を奏劾して罷免した。
- 一方で軍備と民政の双方を整え、灌漑用の池や運河を興して、吏民から称えられた。曹丕も、これこそ真の刺史だとして全国に模範とするよう命じ、賈逵に関内侯の爵を与えた。
冬十月 禅譲の進行
- 左中郎将李伏、太史丞許芝らは、図讖に魏が漢に代わる徴が多いと上表した。これを受け、群臣も天命と民望に従うよう曹丕に即位を勧めたが、曹丕は辞退した。
- 冬十月、漢帝は高廟に告げた上で、行御史大夫張音に節と璽綬・冊書を持たせ、帝位を魏王に譲ることを正式に申し入れた。曹丕は三度辞退したのち、繁陽に壇を築かせた。
- 辛未、曹丕は壇に登って璽綬を受け、皇帝に即位した。天地・山川を祭り、改元して黄初とし、大赦を行った。
十一月 魏の建国体制
- 十一月、漢帝は山陽公に封じられ、漢の正朔を用い、天子の礼楽を許された。四子も列侯に封じられた。
- 曹嵩は太皇帝、曹操は武皇帝と追尊され、廟号は太祖とされた。王太后は皇太后となった。
- 漢の諸侯王は崇徳侯、列侯は関中侯へ改封された。
- 官制も改められ、相国を司徒、御史大夫を司空とした。
- 山陽公は二女を魏へ出して婚姻を結んだ。
- 正朔を改めようとしたが、侍中辛毗が、魏は舜・禹の系統を継いでいるのであり、戦争で天下を取った湯・武とは事情が違うから、夏の時制を行えばよいと述べ、これが採用された。
- 群臣の多くは魏の徳を讃えるあまり漢を貶したが、散騎常侍衛臻だけは禅譲の正統性を論じつつも漢の美点を称えた。曹丕は衛臻を見て、天下の珍しい人物は山陽公とも分かち合うべきだと語った。
- 曹丕は皇太后の父母にまで封爵を与えようとしたが、陳羣が、婦人は夫の爵に従うのであって独自に封土や爵位を受ける礼は古典にないと諫めたため、取りやめて制度として保存した。
十二月 洛陽遷都と諫言
- 十二月、洛陽宮の造営を始めた。
- 戊午、曹丕は洛陽に赴いた。
- 侍中蘇則に対し、西域との通路が開けた以上、燉煌を通じて大珠のような珍宝をさらに買い求められないかと問うたところ、蘇則は、徳が広まれば求めずとも来るのであって、求めて得たところで貴ぶに足りないと答え、曹丕は黙った。
- 東中郎将蔣済を散騎常侍に召した。蔣済は、夏侯尚に与えた「作威作福し、人を生かし殺す権を任せる」といった趣旨の詔を見て、これは亡国の言葉に見えると率直に指摘した。曹丕は怒ったが、蔣済が『書経』の戒めを引いて説くと、詔を回収させた。
- 曹丕は冀州の士卒家族十万戸を河南へ移して洛陽を充実させようとしたが、旱害と蝗害で民が飢えており、群臣は反対した。
- 辛毗は、皇帝の近くで謀議に参与する以上、社稷のために諫めぬわけにはいかないと言って強く争い、曹丕の衣の裾を引いてまで止めた。曹丕は怒ったが、最後には移住を半数に減らした。
- また、狩りで雉を射ることを楽しんでいた際、辛毗が、陛下には楽しいだろうが臣下には苦痛だと諫めたため、以後は頻度を減らした。