資治通鑑漢紀六十 孝獻皇帝 建安二十四年 219年

春正月 侯音の最期

  • 春正月、曹仁は宛を攻略して侯音を斬り、ふたたび樊へ戻った。

漢中決戦 夏侯淵戦死

  • 夏侯淵は戦えばしばしば勝っていたが、曹操は以前から、将たる者は勇だけでなく智略を用いねばならず、勇に任せるだけでは匹夫の敵にすぎないと戒めていた。
  • 劉備は陽平から南へ沔水を渡り、山沿いに前進して定軍山に営を構えた。
  • 法正は攻撃の好機だと判断し、劉備は黄忠に高所から鼓噪して攻めさせた。魏軍は大敗し、夏侯淵は戦死した。益州刺史趙顒もここで死んだ。
  • 張郃は兵をまとめて陽平へ退いた。魏軍は主将を失って混乱したが、督軍杜襲と郭淮が散兵を収め、張郃を臨時の総司令として推したため、軍心は鎮まった。
  • 翌日、劉備が漢水を渡って攻めようとすると、諸将は水際で守るべきだと考えたが、郭淮はそれでは弱さを示すだけで、むしろ水を離れて陣し、敵を半渡で討つべきだと論じた。劉備は疑って渡らず、郭淮は堅守して魏王に報告し、曹操はこれを賞して張郃に節を仮し、郭淮を司馬にした。

二月・三月 曹操の漢中出兵

  • 二月晦日、日食があった。
  • 三月、曹操は長安から斜谷を出て、要地を押さえながら漢中前線に進んだ。
  • 劉備は、たとえ曹操が来ても漢中を必ず得ると豪語し、険阻を頼みに守って決戦を避けた。
  • 曹操が北山の麓に兵糧を運ぶと、黄忠がこれを奪おうとして帰営が遅れた。翊軍将軍趙雲は数十騎で偵察に出て、曹操軍の大部隊に遭遇した。
  • 趙雲は突撃と後退を繰り返しつつ営中へ退き、門を大きく開いて旗鼓を止めた。魏兵は伏兵を疑って引き返したが、その瞬間に趙雲が太鼓を鳴らして弩兵に射させたため、魏軍は互いに踏み合って漢水に落ち、多くが死んだ。
  • 翌朝、劉備はその戦場を視察して、趙雲は全身これ胆であると称えた。

五月 曹操の漢中放棄

  • 曹操は劉備と数か月にわたって対峙したが、魏軍には逃亡兵が多くなった。
  • 夏五月、曹操は漢中の全軍を撤収して長安へ帰り、劉備はついに漢中を領有した。
  • 曹操は、劉備がさらに武都の氐族を取り込んで関中を脅かすことを恐れ、雍州刺史張既に対策を問うた。張既は、氐族に北へ移って食糧のある地に住まわせ、早く徙った者には厚賞を与えれば、続く者も利を見て移ると進言した。
  • 曹操はこれを採用し、張既を武都へ派遣して、五万余落の氐族を扶風・天水の境へ移住させた。

河西諸郡の離反傾向

  • 武威の顔俊、張掖の和鸞、酒泉の黄華、西平の麴演らは、それぞれ郡を拠って自ら将軍を称し、互いに争った。
  • 顔俊は母子を曹操のもとへ人質として送り、援助を求めたが、張既は、彼らは外では魏の威を借りても、内ではいずれ傲慢に背くはずだから、今は双方を存続させて争わせ、その疲弊を待つのがよいと述べた。曹操はこれに同意した。
  • 一年ほどすると、和鸞が顔俊を殺し、さらに武威の王秘が和鸞を殺した。

劉備の上庸方面進出

  • 劉備は宜都太守孟達を秭帰から北へ進ませ、房陵太守蒯祺を殺した。
  • さらに養子の副軍中郎将劉封を漢中から沔水沿いに下らせ、孟達軍と合流させて上庸を攻めさせた。上庸太守申耽は郡を挙げて降伏した。
  • 劉備は申耽を征北将軍・上庸太守とし、その弟申儀を建信将軍・西城太守に任じた。

秋七月 劉備が漢中王を称す

  • 秋七月、劉備は沔陽に壇場を設け、群臣の拝礼を受けて漢中王を称し、璽綬を受けた。あわせて、それまで曹操から受けていた左将軍・宜城亭侯の印綬を返上した。
  • 子の劉禅を王太子とし、牙門将軍魏延を鎮遠将軍・漢中太守として漢川防衛に当たらせた。
  • 劉備は成都に帰って政権を整え、許靖を太傅、法正を尚書令とし、関羽を前将軍、張飛を右将軍、馬超を左将軍、黄忠を後将軍とした。
  • 費詩が関羽に印綬を授けに行くと、関羽は黄忠のような老兵と同列に置かれるのを怒った。費詩は、王業を立てるには多様な人材が必要であり、功名の序列だけで憤るべきではない、漢中王と君侯は一体なのだから禍福を共にすべきだと説いた。関羽は大いに悟って受命した。

孫権の婚姻失敗と対関羽情勢

  • 朝廷は曹操の夫人卞氏を魏王后とした。
  • 孫権が合肥を攻めたころ、温恢は、淮南に敵軍がいても大事ではなく、むしろ関羽が曹仁の方面に変を起こすことを心配すべきだと裴潜に語った。果たしてその見立ては当たった。
  • 関羽は南郡太守糜芳に江陵を、将軍傅士仁に公安を守らせ、自らは軍を率いて樊の曹仁を攻めた。
  • 曹仁は左将軍于禁・立義将軍龐徳らを樊北に駐屯させて防がせた。

八月 樊城水攻めと于禁降伏・龐徳戦死

  • 八月、大雨が降り続き、漢水が氾濫して平地でも数丈の深さとなった。于禁ら七軍はみな水没し、高所に逃れた。
  • 関羽は大船でこれを攻め、窮地に追い込み、于禁らを降伏させた。
  • 龐徳は堤上で甲冑を着け、弓矢を放って奮戦し、矢が尽きてからも白兵戦を続けたが、水勢がさらに強まり、部下たちが皆降伏した。龐徳は小舟で帰営しようとして失敗し、水中で関羽に捕らえられた。
  • 関羽が降伏を勧めると、龐徳は魏王の威勢を称え、劉備を凡庸だと罵って屈せず、国家の鬼となるほうを望むとして、関羽に殺された。
  • 曹操は于禁が長年の宿将でありながら龐徳ほど節を守れなかったことを嘆き、龐徳の二子を列侯に封じた。

樊・襄陽包囲

  • 関羽は樊城を急攻し、水害で城壁が崩れかけたため、城中は恐慌に陥った。
  • ある者は曹仁に、囲いが完成する前に軽舟で夜のうちに脱出すべきだと進言したが、満寵は、洪水は長続きしないはずで、関羽が許都の南へ進まないのは自軍の背後攻撃を恐れているからだと説いた。今ここで退けば大河以南は国家のものではなくなるとし、死守を勧めた。
  • 曹仁はこれに従い、白馬を水に沈めて将兵と盟い、固守を誓った。城中の兵馬はわずか数千、城の水上に残った高さも数板ほどしかなかったが、関羽は舟で城を囲み、重囲を加えた。
  • 関羽はさらに襄陽の呂常も包囲し、荊州刺史胡修・南郷太守傅方は関羽に降った。

九月 鄴での魏諷事件・楊修誅殺

  • 以前から鄴では、沛国の魏諷が人心を惑わす才をもって都を動かしていた。鍾繇は彼を西曹掾に取り立てていたが、鄭袤は任覧に対し、魏諷はいずれ必ず乱を起こすと警告していた。
  • 九月、魏諷は長楽衛尉陳禕と結んで鄴を襲おうとしたが、挙兵前に陳禕が恐れて太子曹丕へ密告し、魏諷は誅され、連座する者は数千に及んだ。鍾繇もこれにより罷免された。
  • また、楊修は以前から丁儀兄弟とともに曹植擁立を図っており、曹丕はこれを恐れて呉質と策を練っていた。車に簏を載せて人を出入りさせる策を用いた際、楊修がこれを見破って曹操へ告げたため、曹操はかえって疑いを深めた。
  • その後、曹植がますます失寵する中でも、楊修はなお曹植と結び、曹操の意図を先回りして答弁文を作り、問いが出るとすぐ返答できるようにしていた。曹操はその不自然な早さを怪しみ、事情を調べて発覚させた。
  • 加えて楊修は袁術の甥でもあり、曹操に嫌われていたため、諸侯との通謀や機密漏洩の罪をあげつらわれ、ついに殺された。

杜襲の諫言と関中の許攸

  • 曹操は杜襲を留府長史として関中に留めていた。
  • 関中の営帥許攸は部曲を擁して従わず、慢言を吐いたため、曹操は討伐しようとした。群臣の多くは強敵を前にして内紛すべきでないと諫めたが、曹操は怒って聞かなかった。
  • 杜襲は、賢者は賢者を知るのであって、凡人は非凡を見抜けない、今は豺狼を差し置いて狐狸を討つ形になり、人からは強敵を避けて弱者を攻めると思われるだろうと説いた。千鈞の弩が小鼠のために発射されず、万石の鐘が草の茎で打たれないのと同じだとも述べた。
  • 曹操はこれを良しとし、許攸を厚く慰撫したため、許攸は服属した。

冬十月 関羽の威震と魏・呉の提携策

  • 冬十月、曹操は洛陽に至った。
  • 陸渾の民孫狼らが乱を起こして県の主簿を殺し、南へ関羽に付いた。関羽は彼らに印綬と兵を与えたが、彼らは帰ってなお賊として略奪した。許以南では、関羽に呼応する動きが各地に見られ、その威は華夏を震わせた。
  • 曹操は許都を移して関羽の鋭勢を避けることまで議したが、司馬懿と蔣済は、于禁らの敗北は水害によるもので国家の大勢を損なうものではなく、劉備・孫権は外見こそ親しいが内実は疎い、関羽が成功すれば孫権は面白くないはずだから、孫権に背後を突かせるべきだと進言した。江南の地を割いて封じる約束まで示せば、樊城包囲は解けるというのである。曹操はこれに従った。

呂蒙・陸遜の対関羽策

  • もともと魯粛は、曹操が生きている以上、関羽と協調して共通の敵に当たるべきだと説いていた。
  • しかし呂蒙は、関羽は驍勇で併呑の野心があり、長江上流に拠る以上、長く共存できないと考えていた。征虜将軍孫皎や潘璋・蔣欽らに配置転換して呉の守りを固め、自分が前進して襄陽を抑えればよいと、ひそかに孫権へ進言した。
  • 孫権はまず徐州を取ってから関羽を討つ案を示したが、呂蒙は、徐州は一時取れても騎兵で奪い返されやすく、守備に大兵力を要するので得策ではない、関羽を取って長江全体を確保する方が守勢にも有利だと説いた。孫権は同意した。
  • さらに孫権が子の婚姻を関羽に求めたところ、関羽は使者を罵って拒んだため、孫権の怒りは深まった。
  • 関羽が樊を攻めると、呂蒙は、関羽が後方を警戒して兵を残しているのは自分を恐れているからであり、自分が病気を理由に建業へ退けば、関羽は備兵を撤いて全力を北へ向けるだろうと述べた。そうすれば南郡を急襲して関羽を捕えられるという策である。孫権はこれを許し、表向きに呂蒙を召還した。
  • 呂蒙が蕪湖に下ると、陸遜は、関羽は功を挙げて驕り、こちらを侮って警戒を解くはずだと述べ、不意を突けば捕縛できると進言した。
  • 呂蒙は建業に着くと、後任には陸遜がよいと推薦した。陸遜は名声がまだ高くなく、関羽に恐れられていないからである。孫権は陸遜を偏将軍・右部督として呂蒙に代えた。
  • 陸遜は陸口に着くと関羽にへりくだった書を送り、その功績を賞賛して忠誠を尽くす姿勢を示した。関羽は安心し、疑いを解いて、徐々に後方守備の兵を樊方面へ移した。

湘関の米と呉の出兵決断

  • 関羽は于禁らの人馬数万を得たものの、食糧に窮し、無断で孫権の湘関の米を奪った。
  • 孫権はこれを聞いてついに出兵を決断した。
  • 孫権は孫皎と呂蒙の二人を左右部の大督としようとしたが、呂蒙は、周瑜と程普が江陵攻めで左右部督となって不和を生じ、危うく国事を誤るところだった前例を挙げ、一軍の統一指揮が必要だと主張した。孫権は納得して呂蒙を大督とし、孫皎を後詰めとした。

徐晃の進軍と曹操軍の反攻準備

  • 曹操が漢中から退く際、平寇将軍徐晃を宛に置いて曹仁を援けさせていた。于禁が敗れると、徐晃は陽陵陂まで進んだ。
  • 関羽は偃城に屯兵したが、徐晃は偽って大規模な塹壕を作り、その後方を断つように見せたため、関羽軍の屯所は焼いて退いた。徐晃は偃城を得て、さらに前進した。
  • 曹操は趙儼を派遣して曹仁軍に参画させた。諸将がすぐ救援に向かうよう徐晃を責め立てると、趙儼は、兵力はまだ少なく、拙速に動けば内外とも疲弊するだけであり、まず外から圧力をかけつつ樊城と連絡して士気を保ち、十日ほど増援を待ってから内外で挟撃すべきだと説いた。諸将はこれに従った。
  • 徐晃は関羽の囲みのすぐ近くに営し、地道や矢文で曹仁と何度も連絡を取った。

孫権の書簡公開と関羽の逡巡

  • 孫権は曹操に書を送り、関羽討伐に力を尽くしたいと述べ、しかもその計画を漏らさぬよう求めた。
  • 群臣は秘密にすべきだと言ったが、董昭は逆に内部でわざと漏らすべきだと主張した。関羽が知れば自衛のため囲みを解き、すぐ利益になるうえ、二者を対立させたまま消耗させられるという理屈である。
  • 曹操はこれを採用し、徐晃に命じて孫権の書を関羽の囲みの中や屯所へ射ち込ませた。関羽軍は動揺し、樊城側は士気を増した。
  • しかし関羽はなお、江陵・公安は堅く守られていると思っていたため、囲みを捨ててすぐ退く決断ができなかった。

曹操の南下と桓階の進言

  • 曹操は洛陽から南下して曹仁救援に向かったが、群臣の多くは、今からでは遅く敗北は必至だと考えた。
  • 侍中桓階だけは、曹仁・呂常がなお死守しているのは、魏王が遠くで後ろ盾となっているからだと述べた。主君が六軍を率いて余力を示している以上、守兵は死地で奮戦し、外にも強援があるのだから、敗北を心配して魏王自ら前線へ急行する必要はないと論じた。曹操はこれをよしとし、摩陂に駐軍した。
  • その後、殷署・朱蓋ら十二営が徐晃のもとに送られた。

徐晃、関羽の囲みを破る

  • 関羽は囲頭に屯し、別に四冢にも屯していた。徐晃は囲頭を攻めると見せかけて、ひそかに四冢を攻めた。
  • 関羽は自ら歩騎五千を率いて出戦したが、徐晃はこれを破って追撃し、そのまま囲みの中まで突入して鹿角や塹壕を打ち破った。胡修・傅方もここで死に、関羽はついに包囲を解いて退いた。
  • ただし船団はなお沔水上に残り、襄陽方面との交通は完全には回復していなかった。

呂蒙の白衣渡江と江陵・公安の降伏

  • 呂蒙は尋陽に至ると、精兵を船中に伏せ、兵には白衣を着せて商人の姿をさせ、昼夜兼行で進んだ。
  • 関羽が江辺に置いていた屯候はことごとく捕らえられたため、関羽は呉軍の接近を知らなかった。
  • 糜芳と傅士仁はもともと関羽に軽んじられており、軍需供給が不十分だった件で、関羽は帰還したら処罰すると言っていたため、二人とも恐れていた。
  • 呂蒙はかつての騎都尉虞翻に書を持たせて傅士仁を説得し、利害を示して降伏させた。虞翻は、これは詭道による用兵だから、降将を伴いながらも守備兵を残して不意に備えるべきだと助言した。
  • 呂蒙は傅士仁を伴って南郡へ進み、これを糜芳に見せると、糜芳も城門を開いて降伏した。
  • 呂蒙は江陵に入ると、于禁の捕虜を解放し、関羽将兵の家族を慰撫した。軍中には民家へ立ち入ったり、勝手に物を取ったりすることを厳禁し、違反者は厳罰に処した。自分と同郷の部下が民家の笠を一つ取って官の鎧を覆っただけでも、軍令違反として涙ながらに斬った。
  • そのため軍中は震え上がり、道に落ちた物を拾う者もいなくなった。呂蒙は老者や病者、飢寒の者を手厚く救済し、関羽府庫の財宝も封じて孫権の到着を待った。

関羽の南走と曹仁・趙儼の判断

  • 関羽は南郡陥落を聞いて南へ退いた。
  • 曹仁は諸将と相談し、今こそ追撃して関羽を捕えるべきだという意見が多かったが、趙儼は、孫権は関羽を後ろから抑える一方、魏がその隙に南へ伸びるのを恐れて便宜上協力を申し出ているだけで、ここで深入りして関羽を追えば、孫権は防備の向きを変えてこちらの患いになると述べた。
  • 曹仁はこれに従って追撃をやめた。後に曹操も趙儼と同じ見通しを立て、急いでその方針を指示した。

呂蒙の心理戦と荊州平定

  • 関羽はたびたび使者を呂蒙へ送り、様子を探った。呂蒙は使者を厚遇し、城中を巡らせて各家の安否を見せ、自筆の書も示して安心させた。
  • 使者が戻ると、兵士たちは家族が無事で、以前より厚く遇されていることを知り、関羽軍から戦意が失われていった。
  • 孫権が江陵に到着すると、荊州の将吏はほとんどみな帰服した。
  • ただし治中従事の潘濬だけは病と称して出なかったので、孫権は人をやって寝台ごと連れてこさせた。潘濬は顔を伏せて泣き、孫権が懇ろに慰めるとようやく礼をとった。孫権は彼をそのまま治中として荊州軍政の相談相手にした。
  • 武陵部従事樊伷は諸夷を誘って劉備に帰順させようとしたが、潘濬は、彼は口先だけで実才がないから五千人で十分に捕らえられると述べた。孫権が派遣すると、果たして潘濬は樊伷を斬って平定した。
  • 孫権は呂蒙を南郡太守・孱陵侯とし、大きな褒賞を与えた。陸遜には宜都太守を兼ねさせた。

十一月 宜都・夷陵方面の制圧

  • 十一月、漢中王劉備が任じていた宜都太守樊友は郡を棄てて逃亡し、諸城の長吏や蛮夷の首長たちはみな陸遜に降った。
  • 陸遜は金銀銅印を求めて新たに帰服した者へ仮授し、詹晏ら蜀側の将や秭帰の豪族で兵を擁する者を撃破・降伏させた。
  • こうして前後あわせて数万人を斬獲・招納し、孫権は陸遜を右護軍・鎮西将軍に進め、婁侯に封じて夷陵に駐屯させ、峡口を守らせた。

十二月 関羽の最期

  • 関羽は自らの孤立を悟り、西へ退いて麦城に拠った。
  • 孫権は誘降を試み、関羽は偽って降るそぶりを見せ、城上に旗や人形を立てて目くらましをし、その間に逃走した。だが兵はほとんど離散し、十数騎しか残らなかった。
  • 孫権はあらかじめ朱然・潘璋に退路遮断を命じており、十二月、潘璋の司馬馬忠が章郷で関羽とその子関平を捕え、斬った。こうして荊州は平定された。

全琮・劉璋・呂蒙

  • 以前、偏将軍全琮は関羽攻略の計を上疏していたが、孫権は事が漏れるのを恐れて返答していなかった。関羽を捕えた後、孫権は公安で酒宴を開き、今日の勝利には全琮の進言の功もあると述べ、陽華亭侯に封じた。
  • 孫権はさらに劉璋を益州牧として秭帰に駐めたが、まもなく劉璋は死んだ。
  • 呂蒙は封侯の正式な受領を待たずして病に倒れ、孫権は館舎のそばに置いてあらゆる手当てを尽くした。針治療のたびにも深く心を痛め、壁に穴をあけて容体をうかがい、少し食べられれば喜び、そうでなければ嘆息した。
  • 一時快方に向かったときには赦令まで出したが、結局卒去した。年四十二。孫権は深く哀しみ、守墓三百家を置いた。

孫権の周瑜・魯粛・呂蒙評

  • 孫権は後に陸遜へ、周瑜は雄烈と胆略で曹操を破り、荊州開拓の功も比類がないと語った。
  • 魯粛については、自分に帝王の大業を説き、曹操の圧力に際しても降伏を主張する群臣を退け、周瑜を推して抗戦を決断させた点を高く評価した。後年に劉備へ地を貸すよう勧めたのは短所だが、二つの長所を損なうほどではないとして、鄧禹になぞらえた。
  • 呂蒙については、若いころはただ胆力があるだけと思っていたが、成長するにつれ学問も深まり、策略も周瑜に次ぐほどになったと評した。関羽攻略の実績は魯粛以上であるとも述べた。
  • また、魯粛の「帝王の起こるときには駆除役がいる、関羽は恐るるに足りない」という言葉を、実際には内政処理の力が及ばないのに大きく言ったものだと寛大に評しつつ、軍営の整頓や法令順守は見事だったと総括した。

于禁への侮辱、徐晃への賞

  • 孫権が于禁と並んで馬を進めていたとき、虞翻は、降虜の分際で君主と馬首を並べるなと叱って鞭を振り上げた。孫権はこれを制した。
  • 孫権が魏への臣従姿勢を示したころ、曹操は張遼ら諸軍を樊救援に召還していたが、到着前に包囲は解けた。
  • 徐晃が摩陂へ帰ると、曹操は七里も出迎え、酒宴を開いて、樊・襄陽を保全したのは徐晃の功績だと称え、厚く褒賞した。桓階も尚書に任ぜられた。

荊州民・屯田民の移住論と司馬懿

  • 曹操は、荊州で傷ついた民や漢水流域の屯田民を皆移住させようと考えた。
  • しかし司馬懿は、荊楚の人々は軽々しく動きやすく、関羽が敗れた今、悪事をなした者らは隠れて情勢を見ているだけだ、ここで善良な者まで移せば心を傷つけ、逃げた者も戻らなくなると諫めた。曹操は同意し、のちに逃亡者たちはみな帰還した。

孫権の称臣と曹操の態度

  • 曹操は孫権を驃騎将軍・仮節・荊州牧、南昌侯に任じた。
  • 孫権は校尉梁寓を入貢に遣わし、朱光ら捕虜も返還した。さらに上書して臣と称し、天命が曹操に帰することを言い立てた。
  • 曹操はその書を外へ示し、「この小僧は、私を炉火の上へ座らせたいのか」と言った。火徳の漢の上に自分を載せて帝位につかせようとしている、という皮肉である。
  • 陳羣らは、漢の天命はすでに尽きており、孫権が遠くから称臣したのも天人の応答だから、曹操は帝位につくべきだと勧めた。
  • しかし曹操は、「もし天命が我にあるなら、自分は周の文王であろう」と述べ、自ら帝位に即くことを避けた。

司馬光の論評

  • 司馬光は、国家にとって教化は急務であり、天下にとって風俗は大事であるのに、多くの俗吏や凡君はこれを軽んじると論じる。
  • 光武帝は創業の戦乱のさなかにも学問・礼楽・学校を興し、明帝・章帝もこれを継いで、朝廷から郡県に至るまで経学と徳行を重んじる人材を用いた。そのため東漢の風化は三代以後まれにみるほど盛んだったと評価する。
  • 和帝以後は外戚・幸臣が権を振るい、賄賂や賞罰の乱れが起きたが、それでもすぐ滅亡しなかったのは、朝廷では袁安・楊震・李固・杜喬・陳蕃・李膺らが公議で支え、民間では符融・郭泰・范滂・許劭らが私論で世を正したからだとする。
  • その蓄積された忠義の風が、後に斧鉞を冒しても節を曲げぬ士を生み、漢室をなお支えた。
  • 桓帝・霊帝の昏虐が重なって何進の召兵、董卓の乱、袁紹らの争いへ至り、ついに王室は覆ったが、それでも州郡の群雄はなお「漢を尊ぶ」を名目に掲げた。
  • 曹操ほど暴戻で強大、しかも大功を挙げた人物でさえ、生涯ついに漢を廃して自立しなかったのは、志がなかったからではなく、名義と世論を恐れて自制したからである。ゆえに、教化と風俗は決して軽視してはならない、と結んでいる。