資治通鑑漢紀六十 孝獻皇帝 建安二十三年 218年
春正月 許都の反乱発覚
- 春正月、吉邈らは千人余りを率いて夜に王必を攻撃し、その門を焼き、王必を矢で肩に負傷させた。王必は部下に助けられて南城へ逃げた。
- 夜が明けると吉邈らの軍は潰れ、王必は潁川典農中郎将厳匡とともにこれを討って斬った。
三月 呉蘭敗死
- 三月、彗星が東方に現れた。
- 曹洪が呉蘭を討とうとした際、張飛は固山に陣して後方遮断をほのめかしたため、魏軍諸将は疑って進退に迷った。
- 騎都尉曹休は、真に道を断つなら伏兵を用いるはずで、あえて声を張り上げるのは実行不能の証拠だとして、呉蘭を急襲すべきだと主張した。曹洪はこれに従い、呉蘭を破って斬った。張飛・馬超は退いた。
夏四月 代郡・上谷の烏桓反乱と曹彰
- 夏四月、代郡・上谷で烏桓の無臣氐らが反乱した。
- これより前、曹操は代郡太守裴潜を召して丞相理曹掾にしたが、裴潜は、自分は胡族に対して厳格に治めていたので、後任が寛大にしすぎれば必ず慢心と離反を招くと予言していた。果たしてそのとおりになり、曹操は裴潜を早く召し戻したことを深く悔やんだ。
- 数十日後、三単于も反乱し、曹操は子の鄢陵侯曹彰を行驍騎将軍として討伐に向かわせた。曹彰は若くして弓馬と腕力に優れ、曹操から、公の任務では父子ではなく君臣の法を守れと戒められた。
劉備と漢中戦線
- 劉備は陽平関に駐屯し、夏侯淵・張郃・徐晃らと対峙した。
- 劉備配下の陳式らが馬鳴閣道を断とうとしたが、徐晃がこれを破った。
- 張郃は広石に駐屯したが、劉備軍はこれを落とせず、益州に急報して増援を求めた。
- 諸葛亮が犍為の楊洪に意見を求めると、楊洪は漢中は益州の咽喉であり、ここを失えば蜀も危うい、出兵をためらうべきでないと答えた。諸葛亮は楊洪を蜀郡太守に推し、政務はすべて滞りなく処理された。
- 何祗もまた才能を認められて広漢太守に進み、蜀の人々は諸葛亮が人材を適材適所に使うことに感服した。
秋七月・九月 曹操西征と曹彰の勝利
- 秋七月、曹操は自ら劉備討伐に向かった。
- 九月、曹操は長安に到着した。
- 同じころ曹彰は代郡の烏桓を攻め、自ら白兵戦を行い、鎧に数本の矢を受けながらも勢いを増し、桑乾の北まで追撃して大勝した。斬首・捕虜は数千に及んだ。
- 鮮卑の大人軻比能は数万騎を率いて情勢を見守っていたが、曹彰の武勇を見て服属を申し出た。こうして北方は平定された。
冬十月 宛の侯音反乱
- 南陽の官民は軍役を苦しみとしていた。冬十月、宛の守将侯音が反乱した。
- 南陽太守東里衮は功曹応余とともに逃れようとしたが、追撃を受け、応余は身を盾にして東里衮を守り、七か所の傷を負って死んだ。東里衮は捕らえられて連れ戻された。
- このとき曹仁は樊に駐屯して荊州を鎮めていたが、曹操はこれを侯音討伐に向かわせた。
- 功曹宗子卿は侯音に対し、郡太守を拘束しても利益はないから放すべきだと説いた。侯音はこれに従ったが、宗子卿はその夜のうちに城を出て太守に合流し、残った民衆を集めて侯音を包囲した。
- 曹仁の軍が到着すると協力して攻め、翌年正月、侯音は敗れて斬られることになる。