資治通鑑漢紀五十九 孝獻皇帝 建安二十一年 216年

春二月:曹操の帰還

  • 二月、魏公曹操は鄴へ帰還した。

五月:曹操が魏王となる

  • 五月、曹操は爵を進めて魏王となった。

崔琰・毛玠の獄

  • 以前、中尉崔琰は鉅鹿の楊訓を曹操に推薦していた。
  • 曹操が魏王に進むと、楊訓はその功徳を称える上表文を作った。これを見た人々の中には、時勢に阿る浮薄な文章だと笑い、崔琰の人選ミスを責める者がいた。
  • 崔琰は楊訓の表草を取り寄せて読み、「文章自体はよいが、時が時だ、いずれ変化があるだろう」と書き送った。崔琰としては、些細なことで人を責め、事情を汲まない論者を皮肉っただけだった。
  • しかし崔琰と不仲な者が、世を傲り魏王を怨望していると讒言したため、曹操は怒って崔琰を逮捕し、髠刑にして徒隷に落とした。
  • さらに讒者は、崔琰が徒隷となってなお虬髯を揺らし、まっすぐ睨みつけて怒りを含んでいると告げたため、曹操は崔琰に死を賜った。
  • 尚書僕射毛玠は崔琰が無辜であることを嘆いて不機嫌だったため、またしても怨謗ありと訴えられ、曹操は毛玠も獄に下した。
  • 侍中桓階・和洽が弁明に努めた。桓階は事実の徹底調査を求めたが、曹操は、毛玠本人と告発者の双方を立てるため、あえて深く調べないのだと述べた。
  • 和洽は、もし毛玠に本当に謗主の言があるなら市朝でさらし刑にすべきであり、そうでないなら告発者が大臣を誣告した罪を問うべきだとして、検証を経ない処置に不安を示した。
  • 曹操は結局、深く追及はしなかったが、毛玠は免官されて家に終わった。
  • 当時、沛国の丁儀が西曹掾として権勢を振るい、毛玠失脚にも力を及ぼした。群臣は彼を恐れて側目したが、何夔と東莞の徐奕だけはこれに媚びなかった。
  • 丁儀は徐奕を讒して魏郡太守へ出したが、桓階の助けで徐奕は難を免れた。傅選が何夔に丁儀へ少しはへりくだるべきだと言うと、何夔は、不義は結局自らの身を害するだけで、明朝に姦佞を抱えて長く保てるものではないと答えた。
  • 崔琰の従弟崔林はかつて陳羣と冀州人士を論じ、崔琰を第一としていた。陳羣が、智あって身を保てないのは減点だとすると、崔林は、男児たるものは不意の遭遇もある、それで安全なだけの者を貴ぶのかと反論していた。

五月己亥朔:日食

  • 五月己亥朔、日食があった。

代郡烏桓への裴潜派遣

  • 代郡の烏桓では三人の大人がみな単于を称し、武力を恃んで驕横で、太守にも統御できなかった。
  • 魏王曹操は、丞相倉曹属の裴潜を代郡太守に任じた。精兵を授けようとしたが、裴潜は、大兵を率いて行けば相手は恐れて拒絶し、少兵では軽んじられるので、策略で対処すべきだと述べ、単車で赴任した。
  • 単于たちは驚きつつも喜び、裴潜が恩威をもって接すると、みな畏服した。

秋七月:南匈奴の再編

  • 南匈奴は久しく塞内に住み、編戸民とほとんど同じ生活をしていたが、貢賦は納めていなかった。
  • 議者の間では、その戸口が増えれば統制が難しくなるので、早めに防策を立てるべきだと論じられた。
  • 秋七月、南単于呼廚泉が魏に入朝すると、曹操はそのまま鄴に留め、右賢王去卑にその国の監督を命じた。
  • 単于には列侯並みの綿・絹・銭・穀が毎年支給され、子孫はその号を継いだ。
  • また匈奴の衆は五部に分けられ、それぞれの有力者を帥に立て、漢人の司馬を置いて監督させた。

八月:鍾繇が相国に

  • 八月、魏では大理鍾繇が相国となった。

冬:孫権討伐の軍備

  • 冬十月、魏王曹操は兵を整えて孫権征討に向かった。
  • 十一月、譙に到着した。