春正月 南皮陥落、袁譚滅亡
- 曹操は南皮を攻めた。
- 袁譚は出戦したが、士卒の損耗が大きく、曹操は一度攻勢を緩めようかと考えた。
- これに対し議郎の曹純は、深く敵地に入りこんだ懸軍の形であり、長期戦は難しい、進んで落とせなければ威を失うとして、自ら鼓を執って攻城兵を率いた。
- その結果、城は陥ち、袁譚は逃走したが追撃されて斬られた。
李孚、降城を安定させる
- 李孚は自らを冀州主簿と称して曹操に会い、新たに降った城内では強者が弱者を侵し、人心が乱れているので、旧知の降人を使って教令を伝えさせるべきだと進言した。
- 曹操はすぐに李孚を派遣し、官民に旧業を安んじて互いに侵害するなと諭させた。
- 城中はようやく落ち着いた。
郭図らの誅殺と王修・管統
- 曹操は郭図らとその妻子を斬った。
- 王修は袁譚の命で安楽へ兵糧輸送に出ていたが、袁譚の危急を聞いて馳せ戻り、高密でその死を知ると、馬を降りて号泣し、主君なくしてどこへ帰れようかと嘆いた。
- その後、曹操のもとへ行って袁譚の遺体の収葬を願い、許された。
- 曹操はさらに王修を安楽へ戻して兵糧監督を続けさせた。
- 袁譚配下の城の多くは降ったが、楽安太守の管統だけは降らなかった。
- 曹操は王修に管統の首を取るよう命じたが、王修は管統を亡国の忠臣として縄を解き、曹操のもとへ送った。
- 曹操はこれを喜び、管統を赦し、王修を司空掾に取り立てた。
郭嘉の進言と陳琳・阮瑀
- 郭嘉は、青・冀・幽・并の名士を多く召して属官とし、人心を帰服させるべきだと勧め、曹操は従った。
- 官渡のころ、袁紹は陳琳に命じて檄文を書かせ、曹操本人だけでなくその父祖にまで及ぶ痛烈な非難を加えさせていた。
- 袁氏敗亡後、陳琳が帰順すると、曹操は、なぜ自分だけでなく父祖まで罵ったのかと問いただしたが、謝罪を受けて許し、陳留の阮瑀とともに記室をつかさどらせた。
劉放、涿郡を帰順させる
- これより先、漁陽の王松が涿郡に拠っていたが、郡人の劉放が説得してその地を曹操に帰服させた。
- 曹操は劉放を司空軍事に任じた。
袁熙・袁尚、遼西烏桓へ走る
- 袁熙は部将の焦触・張南に攻められ、袁尚とともに遼西の烏桓へ逃れた。
- 焦触は自ら幽州刺史を称し、諸郡太守・令長を駆り立てて袁氏に背かせ、曹操への帰順を誓わせた。
- 白馬を殺して盟約する席で、代郡の韓珩だけは、袁氏父子の厚恩を受けながら、破亡を救えず、また殉死もできなかったのは義に欠けるが、曹氏に北面することだけはできないと言い放った。
- 焦触は大事の成否は一人にかからないとして韓珩を赦し、その志を賞した。
- 焦触らはそのまま曹操に降り、みな列侯に封じられた。
夏四月 張燕の降伏
- 黒山賊の張燕は十余万の衆を率いて降伏し、安国亭侯に封ぜられた。
秋八月 幽州方面の討伐
- 故安の趙犢・霍奴らは幽州刺史と涿郡太守を殺し、三郡烏桓も鮮于輔を獷平で攻めた。
- 曹操は八月にこれを討ち、趙犢らを斬った。
- さらに潞水を渡って獷平を救うと、烏桓は塞外へ逃れ去った。
冬十月 高幹、并州で再叛
- 高幹は、曹操が烏桓討伐に向かったのを見て、再び并州で反旗を翻した。
- 上党太守を捕え、壺関口を守って挙兵した。
- 曹操は楽進・李典を派遣してこれを討たせた。
張晟・張琰・衛固らの動き
- 河内の張晟が一万余で崤・澠の間を荒らし、弘農の張琰もこれに応じて兵を起こした。
- 河東太守の王邑が召還されると、郡掾の衛固や中郎将の范先らは鍾繇に留任を願い出たが、実際には高幹と通じていた。
- 曹操は荀彧に、関西諸将は表面上服していても内心では背き、張晟も劉表と通じかねず、河東は天下の要地だから賢者を置く必要があると語った。
- 荀彧は杜畿を推薦し、曹操はこれを河東太守に任じた。
杜畿、河東へ単身赴任
- 鍾繇は王邑に郡の符を渡させ、王邑は印綬を帯びて河北県から自ら帰った。
- 衛固らは兵数千で陜津を遮断したため、杜畿は数か月渡河できなかった。
- 曹操が夏侯惇を派遣しようとすると、杜畿は、河東三万戸の全てが乱を望んでいるわけではなく、いま大軍で迫れば善人まで固等に従わざるを得ず、討伐に勝っても一郡を損なうだけだと述べた。
- まだ王命を公然と拒絶してはいない以上、自分が単車で赴けば、衛固は多謀だが決断力に欠けるので、表向き受け入れるはずであり、一か月あれば計略で縛れると請うた。
- そこで杜畿は道を偽って郖津から渡った。
杜畿、衛固・范先を掌中に収める
- 范先は杜畿を殺して威を示そうとし、門下で主簿以下三十余人を斬ってその去就を見ようとしたが、杜畿は平然としていた。
- 衛固は、殺しても益がなく悪名だけを得るとして、杜畿を奉じる形を取った。
- 杜畿は、衛固・范先は河東の望みであり、自分はその成案に従うだけだとして、衛固に都督・行丞事・領功曹を兼ねさせ、范先には三千余の兵を統率させた。
- 二人は喜んで実権を握ったつもりになり、杜畿を軽んじた。
杜畿、兵力を削ぎ善人を味方にする
- 衛固が大規模動員を望むと、杜畿は急な徴発は人心を乱すから、資金で募兵するほうがよいと説いた。
- これでは兵は少ししか集まらないため、軍事力を弱めることができた。
- さらに杜畿は、将校や掾史もそれぞれ家があるのだから、分けて帰休させ、必要時に召せばよいと勧めた。
- 衛固らは衆意に逆らいにくく、これにも従った。
- その結果、善人たちは外に出てひそかに杜畿を助け、悪人たちは分散して家へ帰った。
白騎来寇と河東平定
- 白騎が東垣を攻め、高幹も濩沢へ入った。
- 杜畿は諸県が自分に味方するのを知ると、数十騎のみで堅固な壁へ赴いて守り、各地の吏民も城ごとこれを助けた。
- 十日ほどで四千余人を得た。
- 衛固・范先らは高幹・張晟と合流して杜畿を攻めたが落とせず、諸県を略しても何も得られなかった。
- 曹操は議郎の張既を西へ派遣して関中諸将を招き、馬騰らが兵を率いて到着すると、張晟らは撃破され、衛固・張琰らは斬られた。
- その余党は赦された。
杜畿の善政
- 杜畿は河東統治にあたり、寛大で恵み深い政治を第一とした。
- 訴訟があると、義理を説いて家へ帰し、よく考えさせたため、父老は互いに責め合って訴えを恥じるようになった。
- 耕作と養蚕を勧め、家畜飼育を課したので、家ごとに豊かになった。
- その後に学校を興し、孝弟の士を挙げ、軍事訓練と備えも整えた。
- 河東はついに安定し、杜畿は十六年にわたり治めて天下第一と称された。
荀悦『申鑑』を上奏
- 秘書監・侍中の荀悦は『申鑑』五篇を作って献上した。
- 荀悦は荀爽の兄の子であり、政権が曹氏に移り、天子がみずから政務に関与できない状況で、献可替否の志を抱きながら策が用いられないため、この書を著した。
- その大要は、政治に先立って偽り・私情・放縦・奢侈という四つの害を除き、そのうえで農桑・風俗の是正・文教・武備・賞罰という五つの政を立てよというものであった。
- また、民が生活を楽しめなければ善に勧められず、財を豊かにして志を安定させることが必要であると説いた。
- 名実を一致させ、詐偽で人心を惑わせぬこと、礼教と刑罰をそれぞれに応じて使い分けること、平時から武備を整えること、賞罰を妄りにしないことなども論じた。
- 四患を除き五政を立て、誠実に守り、簡明で怠らず、疎にして失わなければ、天下は安んずると結んだ。