資治通鑑漢紀五十四 孝獻皇帝 建安 三年 198年
春正月・曹操帰還
三月・穣包囲
- 三月、曹操は再び張繡を討とうとした。
- 荀攸は、張繡は遊軍であり劉表の糧に頼っているので、急がず離間を待てば誘って降せる、急攻すればかえって劉表と固く結びつくと諫めた。
- 曹操は従わず、張繡を穣に囲んだ。
夏四月・李傕一族の滅亡
- 夏四月、謁者僕射の裴茂が詔を奉じ、段煨ら関中諸将に李傕討伐を命じた。
- 李傕は三族まで誅され、董卓以来の党与はここにほぼ尽きた。
- 段煨は安南将軍となり、閺郷侯に封じられた。
袁紹の遷都案と田豊の進言
- 以前から袁紹は、朝廷の詔書に自分に不利な内容があるのを嫌い、天子を自分の近くへ移したいと考えていた。
- 曹操に対し、許は低湿で、雒陽は荒廃しているから、鄄城に遷都して豊かな地に拠るべきだと持ちかけた。
- 曹操はこれを拒んだ。
- 田豊は袁紹に、遷都がかなわない以上、すぐに許を討ち、天子を奉迎して詔書をもって天下に号令するのが上策だと進言したが、袁紹は従わなかった。
- その後、袁紹の逃亡兵が曹操に、田豊は許襲撃を勧めていたと告げたため、曹操は穣の包囲を解いて引き揚げた。
五月・安衆での反撃
- 五月、張繡は軍を率いて追撃し、劉表も兵を送って安衆に屯し、険阻に拠って曹操軍の後路を断った。
- 曹操は荀彧に書を送り、安衆に着けば必ず張繡を破ると告げた。
- 実際に安衆へ到ると、前後から敵を受けたため、夜のうちに険阻を穿って偽装退却した。
- 劉表・張繡は全軍で追ってきたが、曹操は奇兵を放ち、歩騎で挟撃して大破した。
- 後日、荀彧がなぜ必勝を断言できたのか尋ねると、曹操は、敵は退却する味方を遮って死地に追い込んだ以上、自分たちは必死になって戦うから勝てると読んでいたと答えた。
賈詡の兵法
- 張繡が曹操を追うとき、賈詡は追撃すれば敗れると止めたが、張繡は従わず大敗した。
- 張繡が敗れて戻ると、賈詡はすぐ再追撃すべきだ、今度は勝つと言った。
- 張繡は半信半疑ながら従い、果たして勝利して帰った。
- 張繡が理由を問うと、賈詡は、曹操自身が退却軍の殿を務めるなら張繡では敵わないが、今回の急退は国内の変事ゆえで、曹操は勝勢のまま軽装で前進し、後備を諸将に任せるはずだから、そこを突けば勝てると説明した。張繡は大いに服した。
呂布、劉備を破る
- 呂布はまた袁術と通じ、高順と張遼に劉備を攻めさせた。
- 曹操は夏侯惇を救援に出したが、高順らに敗れた。
- 秋九月、高順らは沛城を破り、劉備の妻子を捕えた。劉備は単身で逃れた。
曹操の呂布征討開始
- 曹操は自ら呂布を討とうとしたが、諸将は、背後に劉表・張繡がおり、遠く呂布を攻めるのは危険だと反対した。
- 荀攸は、劉表・張繡は直前に敗れており動けず、呂布は勇猛で袁術を頼み、淮泗の豪傑を糾合しうるので、今こそその離反直後を衝くべきだと進言した。曹操はこれに従った。
- 遠征にあたって、泰山の臧霸・孫観・呉敦・尹礼・昌豨らも呂布に附いた。
- 曹操は梁で劉備と合流し、彭城へ進んだ。
- 陳宮は、呂布は迎撃して疲弊した敵を討つべきだと勧めたが、呂布は、敵が来て泗水に押し込まれるのを待てばよいと楽観した。
- 冬十月、曹操は彭城を屠り、広陵太守の陳登は郡兵を率いて先駆けとなった。
下邳包囲
- 曹操が下邳へ進むと、呂布はたびたび自ら出撃して戦ったが、ことごとく大敗し、城へ籠った。
- 曹操は呂布に手紙を送り、禍福を説いた。呂布は降伏したいと思った。
- 陳宮は、曹操は遠征軍で長く持たない、自分が城を守り、高順も残して、呂布が騎兵を率いて外へ出て兵糧道を断てば、十日余りで曹操軍を破れると主張した。
- 呂布もいったんはその策に賛成した。
呂布の妻の反対
- しかし呂布の妻は、陳宮と高順は平素から不和であり、呂布が出てしまえば心を合わせて守らぬかもしれない、一度失敗すれば立つ場所がなくなると説いた。
- さらに、曹操が陳宮を子のように待遇したのに裏切られて自分のもとへ来たことを引き、呂布が曹操以上に厚遇しているわけではないのに城と妻子を託すのは危険だと泣いて止めた。
- 呂布は結局、出撃策をやめた。
袁術への救援要請
- 呂布は許汜・王楷を袁術に送り、救援を求めた。
- 袁術は、以前に娘をよこさなかったのだから敗れるのは当然で、なぜ今さら来るのかと冷淡だった。
- 使者は、呂布が滅べば明上、すなわち袁術自身も危ういと説いたため、袁術は兵を整えて牽制だけは行った。
- 呂布は、娘が届かなかったため袁術が本気で救わないと恐れ、綿で娘を馬に縛りつけ、自ら夜陰にまぎれて送り出そうとしたが、曹操軍の守りに遭って矢を受け、城に引き返した。
張楊の死
- 河内太守の張楊は呂布と旧知で救いたかったができず、野王東市で兵を出して遠くから声援するにとどまった。
- 十一月、部将の楊醜が張楊を殺して曹操に応じたが、別将の眭固がまた楊醜を殺し、その軍を率いて北で袁紹に合流した。
- 張楊は仁厚ではあったが威刑に乏しく、反乱が発覚しても泣いて赦してしまうので、ついにこの禍を招いた。
水攻めと呂布軍の離反
- 曹操軍は長期包囲で疲れて撤収論も出たが、荀攸と郭嘉は、呂布は勇猛だが無謀で、連敗により気勢が衰え、陳宮も知略はあるが遅いので、今攻めきるべきだと説いた。
- 曹操は沂水・泗水を引いて下邳城を水攻めにした。
- 一か月余りで呂布はいよいよ窮した。城上から曹操軍に、これ以上自分を苦しめるな、自ら首を差し出すと言ったが、陳宮は、曹操を明公などと呼ぶな、いま降っても石に卵を投げるようなもので助からないと止めた。
- 呂布の将・侯成は逃げた名馬を取り戻し、祝いとして酒肉を分けて呂布にも献じたが、呂布は禁酒令を破って酒造りをしたのは謀反の相談のためだろうと怒った。
- 侯成は恐れ怒り、十二月癸酉、宋憲・魏続らとともに陳宮・高順を捕らえ、その兵を率いて曹操に降った。
呂布処刑
- 呂布は麾下を率いて白門楼へ登ったが、包囲は急で、左右に自分の首を取って曹操に差し出せと命じた。部下は忍びず、呂布は降りて降伏した。
- 呂布は曹操に会うと、今日から天下は定まると言い、自分を騎兵、曹操を歩兵にすれば天下平定は難しくないと売り込んだ。
- さらに劉備を見て、自分はかつて上客として迎えたのに、今は縛られた降虜だ、ひと言助命してくれと言った。
- 曹操は笑って、虎を縛るのに緩くはできないと答え、縄をゆるめようとした。
- しかし劉備は、呂布は丁原・董卓をも殺した人物であり、助けてはならないと諫めた。
- 呂布は劉備を「大耳の子はもっとも信用ならぬ」と罵った。
- 曹操は陳宮に向かって、平生知略自負していたがどうかと問うた。陳宮は、呂布が自分の言を用いなかったからこうなったので、従っていれば必ずしも捕えられなかったと言った。
- 曹操が母や妻子のことを問うと、陳宮は、仁政を行う者は他人の親や祭祀を絶やさないはずであり、彼らの生死は自分ではなく曹操にかかっていると答えた。
- 曹操はなお言葉を失い、陳宮は刑場へ向かって振り返らなかった。曹操は涙を流した。
- 呂布・陳宮・高順はいずれも絞殺され、首は許の市に送られた。
- 曹操は陳宮の母を終身養い、その娘を嫁がせ、家を厚く保護した。
- 以前の尚書令陳紀と、その子陳羣が呂布軍にいたが、曹操はともに礼をもって用いた。
- 張遼もその衆を率いて降り、中郎将に任じられた。
- 臧霸は逃亡して隠れたが、曹操は探し出して招き、呉敦・尹礼・孫観らを呼び寄せさせ、みな降伏させた。
- 曹操は琅邪・東海の一部を分けて城陽・利城・昌慮の諸郡を置き、臧霸らをそれぞれ守相とした。
曹操の寛典
- 曹操がかつて兗州にいた頃の将、徐翕・毛暉が乱に乗じて叛き、のちに臧霸のもとへ逃げていた。
- 曹操は劉備を通じてその首級を求めたが、臧霸は、自分が自立できたのはそのような不義をしないからであり、主君の恩に背くことはできないが、王者の君には道義で諭してほしいと述べた。
- 劉備がこれを伝えると、曹操は感嘆し、まさに古人の行いだと言って、二人とも郡守に任じた。
劉表・張羡・孫策
- 陳登は功により伏波将軍を加えられた。
- 劉表は袁紹と深く同盟し、治中の鄧羲が諫めたが、劉表は、内は貢職を失わず、外は盟主に背かないのが天下の通義だとして聞かなかった。鄧羲は病と称して退いた。
- 長沙太守の張羡は気が強く、劉表に礼遇されなかったため、郡人の桓階の勧めで長沙・零陵・桂陽三郡を挙げて劉表に背き、曹操に通じた。
- 孫策は正議校尉の張紘を派遣して方物を献上した。
- 曹操はこれを慰撫するため、孫策を討逆将軍・呉侯に封じ、自らの弟の娘を孫策の弟・孫匡に嫁がせ、また子の曹彰に孫賁の娘を娶らせるなど婚姻で結んだ。
- さらに孫権・孫翊も礼をもって招こうとし、張紘を侍御史に任じた。
周瑜・魯粛の転身
- 袁術は周瑜を居巢長、魯粛を東城長にしていた。
- 二人は袁術に将来性がないと見て官を捨て、長江を渡って孫策に従った。
- 孫策は周瑜を建威中郎将とし、魯粛は曲阿に家を構えた。
孫策、江東統一へ
- 袁術は間者に印綬を持たせ、丹陽の宗帥・祖郎らに与えて山越を煽り、孫策に対抗させようとした。
- 劉繇が豫章へ逃れた後、太史慈は蕪湖の山中に拠って自ら丹陽太守を称し、孫策が宣城以東を平定しても、涇以西の六県だけは従わなかった。太史慈は涇県に進み、山越の支持を集めた。
- 孫策は自ら陵陽で祖郎を討って捕えたが、かつて自分を襲って馬鞍を斬った恨みは捨て、才能があれば天下に共に用いると言って恐れさせず、縄を解いて門下の職に任じた。
- 続いて勇里で太史慈を捕え、その手を取って神亭で戦った時のことを覚えているかと笑った。もしあの時自分を捕えていたらどうしたかと問うと、太史慈はまだわからないと答えた。
- 孫策は大笑いし、今日はお前とともに事をなす日だと言い、太史慈の義烈を高く買って、自分こそその知己だと語った。
- 劉繇が豫章で死ぬと、その遺衆一万余は華歆を主に立てようとしたが、華歆は時に乗じて専擅するのは臣下の道でないとして固辞し、衆もついに従った。
- 孫策は太史慈を派遣し、その遺衆を慰撫・統合させた。
- 孫策は太史慈に、かつて劉繇が自分を袁術に属したと責めたが、自分は先君の残兵を得るためやむなく袁術に屈したのであり、袁術が臣節を失ってからは諫めて離れたのだと事情を説明させた。
- あわせて劉繇の部曲に、来たい者は連れて来てよく、望まぬ者は安心させよ、華歆の統治ぶりも見てこいと命じた。
- 左右は太史慈が北へ去って帰らぬのではと疑ったが、孫策は、太史慈は義を重んじ約束を違えぬ人だと断言した。
- 昌門で別れ、いつ帰るかと問うと、太史慈は六十日を超えないと答え、実際そのとおりに帰還した。
- 太史慈は、華歆は徳はあるが積極策はなく、自守するばかりだと報告した。
- また、丹陽の僮芝が廬陵を擅し、番陽の民帥が宗部を立て、海昏・上繚も命令に従わないと伝えた。
- 孫策はこれを聞いて大いに喜び、江南を兼併する志を固めた。
袁紹、公孫瓚を圧迫
- 袁紹は連年、公孫瓚を攻め続けたが落とせず、いったん和議を持ちかける書を送った。
- 公孫瓚は返答せず、防備を強化したうえで、袁紹とて自分の城を前に年単位で座り込むことはできないと長史の関靖に豪語した。
- 袁紹は大軍を発してさらに攻めた。
- 以前から、公孫瓚は部将が包囲されても救援せず、一人を助ければ後の将が頼って奮戦しなくなると放置していた。このため南境の別営は、守っても救われないと知ると、降るか潰走するかしてしまった。
- 袁紹軍はそのまま易京の門まで迫った。
- 公孫瓚は子の公孫続を黒山の諸帥に救援を求めさせ、自身は精騎を率いて西山の傍を出て黒山軍をまとめ、冀州を荒らして袁紹の後方を断とうとした。
- 関靖は、兵士たちが持ちこたえているのは家族と居所を恋うるためで、将軍を頼みにしているからだ、ここを捨てて出れば易京はすぐ危うくなると諫めた。
- 公孫瓚はこれに従って出撃をやめた。
- それでも袁紹の圧迫は日ごとに強まり、公孫瓚の衆は日に日に窮迫していった。