資治通鑑漢紀五十四 孝獻皇帝 建安 二年 197年

春正月・曹操の張繡征討と敗走

  • 春正月、曹操は張繡を淯水に攻めた。
  • 張繡は軍勢を挙げて降伏したが、曹操が張済の未亡人を側室にしたため恨みを抱いた。さらに曹操が金品を胡車児に与えたことで、張繡は自分の配下を買収されたと疑い、不安を強めた。
  • 張繡は突然曹操の軍を襲い、曹操の長子・曹昂を殺し、曹操自身も流れ矢を受けて敗走した。
  • 校尉の典韋は奮戦して左右の兵が尽きるまで抵抗し、数十の傷を負いながら敵兵を両脇に抱えて打ち殺し、怒号のうちに戦死した。
  • 曹操は散兵を収めて舞陰に退いた。張繡が騎兵で追撃してきたが、曹操はこれを破り、張繡は穣へ退いて再び劉表と結んだ。

于禁の統率

  • 全軍が混乱するなか、平虜校尉の于禁だけは部隊を整然とまとめて帰還した。
  • 途中、青州兵が民を掠奪していたため、その罪を数えて攻撃した。青州兵は曹操に訴えた。
  • 于禁は着くと先に陣営と壕を整え、すぐには曹操に面会しなかった。讒言を恐れて早く弁明すべきだと勧められたが、敵が後ろにいる以上、防備が先であり、曹操ほどの人物なら讒言は通らないと言って動じなかった。
  • 防備を終えてから事情を述べると、曹操は、淯水の敗戦で自分すら狼狽した中、乱軍を整え暴を討った節義は古名将にも劣らぬと賞し、益寿亭侯に封じた。

袁紹と曹操の優劣論

  • 曹操が許へ帰ると、袁紹から来た書状の文辞は驕慢だった。
  • 曹操は荀彧・郭嘉に、いま不義を討とうとするが力で敵わぬ場合どうすべきかと問うた。
  • 二人は、劉邦が項羽より智で勝ったように、曹操は袁紹に対して十の勝ちがあり、袁紹には十の敗けがあると説いた。
  • 具体的には、礼の煩雑さより自然な統率、逆に動く者より順を奉ずる義、寛縦より法による統制、身内偏重より才による登用、多謀少断より即応、虚名より誠実、見える小事より天下への大恩、讒言混乱より明察、是非の曖昧さより礼法の明断、虚勢より兵法の実際、といった点で曹操が優れていると論じた。
  • 曹操は笑い、そこまでの徳が自分にあるかと言った。

呂布先討の方針

  • 郭嘉は、袁紹が北で公孫瓚と戦っている間に東で呂布を取るべきだと主張した。もし袁紹が攻めてきた際、呂布が南から呼応すれば大害だからである。
  • 荀彧も、呂布を片づけなければ河北攻略は難しいと賛同した。
  • 曹操は、関中の諸将や羌胡、蜀漢方面が動くのを懸念したが、荀彧は、韓遂・馬騰らは当面自保に走るはずで、恩をもって結んでおけば山東平定まで動かぬと見た。
  • さらに鍾繇には西方経略の才があるとして、曹操は鍾繇を侍中・守司隷校尉とし、持節して関中諸軍を督させた。
  • 鍾繇は長安に着くと馬騰・韓遂らに書を送り、利害を説いた。両者はそれぞれ子を朝廷へ入侍させた。

袁術の帝位僭称

  • 袁術は寿春で帝を称し、国号を仲家とした。
  • 九江太守を淮南尹に改め、公卿百官を置き、天地を郊祀した。
  • 沛相の陳珪は若いころ袁術と交際があったため、袁術は書を送り、さらに陳珪の子を人質にして必ず来るよう迫った。
  • 陳珪は返書で、曹将軍は漢朝の典刑を興復しようとしているのに、お前は漢室を助けず陰謀を企てている、自分は私恩でこれに従うくらいなら死を選ぶと拒んだ。
  • 袁術は旧兗州刺史の金尚を太尉にしようとしたが、金尚は拒否して逃げ、袁術に殺された。

袁紹への大将軍拝命

  • 三月、将作大匠の孔融が持節して袁紹を大将軍に拝し、冀・青・幽・并四州を兼督させた。

夏五月・蝗害と呂布の翻意

  • 夏五月、蝗害が起きた。
  • 袁術は使者の韓胤を派遣し、帝位僭称を呂布に告げ、あわせて娘を迎えたいと求めた。
  • 呂布はいったん娘を送ったが、陳珪は、徐州と揚州が結べば混乱は収まらず、呂布も不義の名を受けて危うくなると説いた。
  • 呂布はもともと袁術に怨みがあり、途中まで行った娘を呼び戻し、婚約を破棄して韓胤を械送し、許の市で梟首した。

陳登と曹操の連携

  • 陳珪は子の陳登を曹操のもとへ行かせたかったが、呂布は許さなかった。
  • ちょうど詔で呂布が左将軍に任じられ、曹操からも慰撫の手紙が届いたので、呂布は喜んで陳登を感謝使として送った。
  • 陳登は曹操に対し、呂布は勇敢だが無謀で変節しやすいので早く図るべきだと述べた。
  • 曹操は同意し、陳珪に中二千石の加秩を与え、陳登を広陵太守にし、東方で内応を整えるよう密かに託した。
  • 陳登が帰ると、呂布は自分の徐州牧任命がかなわなかったことを怒り、父子に欺かれたと罵った。
  • 陳登は落ち着いて、曹操は将軍を虎のように見て、肉で満たさなければ人を噛むと言ったのに対し、呂布は鷹のように空腹なら使え、満ちれば飛び去ると言い返したのだと説明した。呂布はようやく怒りを解いた。

袁術軍の下邳攻撃と瓦解

  • 袁術は張勲・橋蕤らを出し、韓暹・楊奉と結んで数万の歩騎で七道から下邳を攻めた。
  • 呂布は兵三千・馬四百ほどで敵わないと恐れ、陳珪に相談した。
  • 陳珪は、韓暹・楊奉は袁術と急ごしらえで結んだだけで連携できないと見抜き、呂布から二人に書を送り、ともに董卓を討った功臣なのに、なぜ袁術とともに賊になるのか、術軍を破れば資財をすべて与えると誘わせた。
  • 韓暹・楊奉は大喜びして寝返り、呂布が張勲軍から百歩のところまで進むと、同時に叫喚して張勲の陣に突入した。
  • 張勲らは潰走し、十人の将の首が斬られ、落水死も続出した。
  • 呂布はそのまま韓暹・楊奉と連合して寿春へ向かい、水陸から進んで鍾離に達した。各地で掠奪し、淮北へ戻って袁術を罵る書を残した。
  • 袁術は歩騎五千を率いて淮上に兵を並べたが、呂布の騎兵は川の北で大笑いして引き揚げた。

呂布と高順

  • 泰山賊帥の臧霸が莒で琅邪相の蕭建を襲って破り、資財を手にしたが、呂布には約束の貢物を送らなかった。
  • 呂布は自ら取り立てに行こうとしたが、高順は、威名が遠く知れ渡る将軍がみずから賂を求めるようでは、失敗した場合に名を損なうと諫めた。
  • 呂布は従わず、臧霸らに拒まれて何の成果もなく帰った。
  • 高順は清廉で威厳があり、口数少なく、部隊の統率は整い、常勝して「陥陣営」と称された。
  • しかし呂布は高順を疎んじ、親族の魏続に兵を与え、戦いの時だけ再び高順に指揮を任せた。高順は怨まず忠義を尽くした。
  • 高順は、呂布は軽率で熟慮せず、失敗しても「誤りだった」と言うだけで、それを何度も繰り返してはならないと諫めたが、呂布はその忠を知りつつ従えなかった。

孫策の将軍号と王朗の帰朝

  • 曹操は議郎の王誧を遣わし、詔書をもって孫策を騎都尉・烏程侯とし、会稽太守を領させた。あわせて呂布・呉郡太守の陳瑀とともに袁術を討つよう命じた。
  • 孫策は威勢を重くするため将軍号を求め、王誧は現地判断で明漢将軍の号を与えた。
  • 孫策が銭唐まで進むと、陳瑀がひそかに祖郎・厳白虎らと結んで内応しようとしているのを察し、呂範・徐逸を派遣して海西で陳瑀を破った。陳瑀は単騎で袁紹のもとへ逃れた。
  • 曹操は王朗を徴し、孫策もこれを帰してやった。王朗は曹操のもとで諫議大夫・司空軍事参画となった。

陳国の滅亡

  • 陳王劉寵は勇猛で弩射に優れ、黄巾の乱以来、自国で兵を治めて守ったため、人々は畏れて離反しなかった。
  • 国相の駱俊も威恩があり、他の王侯が俸禄を失って困窮する中で陳国だけは富強で、隣郡から多くの民が流れ込み、十余万の衆を擁した。
  • 劉寵は陽夏に駐屯し、自ら輔漢大将軍を称した。
  • 袁術が食糧を求めたが、駱俊は拒絶した。
  • 袁術は怒って刺客を放ち、駱俊と劉寵を殺させた。これにより陳国は衰亡した。

秋九月・曹操の袁術征討

  • 秋九月、司空の曹操は東に出て袁術を討った。
  • 袁術は曹操来襲を聞くと軍を捨てて逃げ、橋蕤らを蘄陽に残して防がせた。
  • 曹操は橋蕤らを撃破して斬り、袁術は淮水を渡って逃れた。旱魃と凶作で兵民は凍え飢え、袁術の勢力はここから急速に衰えた。

何夔・許褚・楊彪

  • 曹操は陳国の何夔を掾に招き、袁術をどう見るか尋ねた。何夔は、天が助けるのは順であり、人が助けるのは信であるが、袁術にはそのどちらもないから滅ぶのは当然だと答えた。曹操は深く感じ入った。
  • 何夔は曹操が部下に杖刑を加えることが多いのを知り、辱めを受けるくらいなら死ぬと毒を蓄えていたため、かえって最後まで笞を受けなかった。
  • 沛国の許褚は並外れた勇力で、宗族や若者数千家を率いて砦を築き外敵を防いでいた。曹操が淮汝を巡ると、許褚はその衆を挙げて帰附した。曹操は「わが樊噲だ」と言って都尉に任じ、宿衛に入れた。従者たちもみな猛士として知られた。
  • 旧太尉の楊彪は袁術と姻戚関係にあったため、曹操はこれを嫌い、廃立を図ったとして捕えて獄に下し、大逆で弾劾した。
  • 孔融は朝服も着けず曹操のもとへ走り、楊家は四代にわたる清徳であり、袁氏との縁だけで罪にできるものではないと訴えた。
  • 曹操は満寵に取り調べを命じたが、孔融と荀彧は口裏を合わせて、供述だけを取り、拷問を加えないよう頼んだ。
  • 満寵は返答せず法どおり取り調べたが、楊彪に不利な供述は得られなかったため、名望ある人物を不明瞭な罪で罰せば民心を失うと曹操に進言した。曹操はその日に赦した。
  • 荀彧と孔融は当初は満寵の拷問を怒ったが、その結果として楊彪が助かったので、かえって満寵を高く評価した。
  • 楊彪は以後、足が引きつる病と称して十余年公の場に出ず、禍を避けた。

朝廷の礼制と人事

  • 馬日磾の喪が京師に届くと、朝廷は厚く礼遇しようとしたが、孔融は、上公の身で奸臣に媚びて引き回された人物を、脅迫されたからといって美化すべきでないと述べたため、その議は取りやめられた。
  • 金尚の喪が届くと、百官が弔祭し、その子の金瑋を郎中に任じた。

冬十一月・張繡再討と韓暹・楊奉の最期

  • 冬十一月、曹操は再び張繡を攻め、湖陽を陥れて劉表の将・鄧済を捕え、さらに舞陰を攻め落とした。
  • 韓暹と楊奉は下邳にいて徐州・揚州の間を掠奪していたが、飢えたため荊州へ行こうとし、呂布に止められた。
  • 楊奉は、劉備が呂布に恨みを持っていることを知り、ひそかに通じて共闘を図った。劉備は表面上同意し、楊奉が沛に来ると城内に招いて酒食の最中に縛って斬った。
  • 韓暹は孤立して十数騎で并州へ逃げたが、杼秋令の張宣に殺された。
  • 胡才は河東に残ったが仇に殺され、李樂は病死した。郭汜も部下の伍習に殺された。

荊州の士人たち

  • 潁川の杜襲・趙儼・繁欽は戦乱を避けて荊州に来ており、劉表は賓客として遇していた。
  • 繁欽はしばしば才能を劉表に認められたが、杜襲は、ここへ来たのは身を全うして時を待つためであり、劉表を乱世の主と見て仕えるためではない、と厳しく戒めた。繁欽はこれを受け入れた。
  • 曹操が天子を迎えて許に都したのち、趙儼は繁欽に、曹鎮東こそ華夏を救う人物だと語り、自らも曹操のもとへ帰った。曹操は趙儼を朗陵長に任じた。
  • 陽安都尉の李通の妻の伯父が法を犯し、趙儼はこれを逮捕して死刑相当とした。李通の妻子は助命を泣いて求めたが、李通は、公義のために曹公と力を合わせているのだから私情で曲げられないと拒み、趙儼の公正を喜んで親交を結んだ。