春正月・二月・三月:赦令と河南の賊
- 春正月己卯、天下に大赦があった。
- 二月、滎陽の賊が中牟令を殺した。
- 三月、河南尹の何苗が滎陽賊を討ち破り、車騎将軍に任じられた。
韓遂の伸長と耿鄙の敗死
- 韓遂は辺章・北宮伯玉・李文侯を殺し、十余万の兵を握って隴西を包囲した。
- 太守の李相如は叛いて韓遂と通じた。
- 凉州刺史の耿鄙は六郡兵を率いて韓遂を討とうとしたが、治中の程球が私利をむさぼって民怨を買っていた。
- 漢陽太守の傅燮は、刺史の統治はまだ浅く、賊は大軍に対して結束し、こちらの新兵は上下不和だから、今は軍を休めて徳を養い、賊が内部分裂するのを待ってから討つべきだと説いた。
- 耿鄙は従わず、夏四月、狄道に至ると州の別駕が反乱して賊に応じ、まず程球を殺し、次いで耿鄙を殺した。
傅燮の最期
- 賊はそのまま漢陽を包囲した。城中は兵少なく食糧も尽きたが、傅燮は固守した。
- 北地の胡騎数千は以前から傅燮を慕っており、城外で叩頭して、郷里へ送ると申し出た。
- その子傅幹は十三歳で、朝廷はすでに父を容れず、ここは一度郷里へ帰って有道の世を待つべきだと勧めた。
- しかし傅燮は、禄を受けながら難を避けるわけにはいかず、ここで死ぬと決意した。
- 主簿の楊会に子を託し、自分の程嬰だと言い残した。
- 狄道の王国は旧酒泉太守黄衍を使いとして送り、もはや天下は漢のものではない、自分たちの主将にならないかと誘った。
- 傅燮は剣を叩いて叱りつけ、左右を率いて出撃し、陣中で戦死した。
馬騰・王国と三公交替
- 耿鄙の司馬であった扶風の馬騰もまた兵を率いて叛し、韓遂と合流して王国を盟主に推し、三輔を侵略した。
- 太尉の張温は寇賊を平定できなかったとして免官され、司徒の崔烈が太尉に移った。
- 五月、司空の許相が司徒となり、光禄勲の丁宮が司空となった。
幽州での張純・張挙の反乱
- もとは張温が凉州討伐のため、幽州の烏桓突騎三千を徴発した際、中山相だった漁陽の張純がその統率を願ったが許されず、涿令の公孫瓚に任された。
- 軍が薊に着くと、烏桓は食糧給与の未払いを理由に多くが本国へ逃げ帰った。
- 張純は自分が任じられなかったことを恨み、同郡の元泰山太守張挙、烏桓大人の丘力居らと結び、薊中で掠奪を行った。
- 護烏桓校尉の公綦稠、右北平太守の劉政、遼東太守の陽終らを殺し、兵十余万を集めて肥如に屯した。
- 張挙は天子を称し、張純は弥天将軍・安定王を称し、州郡に檄を飛ばして、漢帝は位を避け、公卿は張挙を迎えよと命じた。
冬十月:区星の乱と孫堅
- 冬十月、長沙の賊区星が将軍を称し、一万人余を率いた。
- 朝廷は孫堅を長沙太守に任じて討伐させ、これを平定した。
- 孫堅は功によって烏程侯に封じられた。
十一月・十二月:太尉交替と胡族反乱
- 十一月、太尉の崔烈が罷免され、大司農の曹嵩が太尉となった。
- 十二月、屠各胡が反乱した。
年末の政治風俗
- この年も関内侯は五百万で売られた。
- 前太丘長の陳寔が死去し、天下から三万余人が弔問に集まった。
- 陳寔は郷里で公平に人を導き、争訟の当事者は彼に裁断を請い、筋道を示されると不満なく退いた。
- 人々は、官の刑罰を受けるより陳君から非を指摘される方が恥だとまで言った。
- 楊賜や陳耽が公卿に拝命するたび、群僚が祝賀する中で、なお陳寔が高位に就いていないのが惜しいと嘆いた。