資治通鑑漢紀 孝靈皇帝 中平 五年 188年

春二月・各地の反乱と州牧設置の開始

  • 春正月、朝廷は大赦を行った。
  • 二月、紫宮に彗星のような異変が見えたとされた。これは天子の宮にあたる星域での異変と受け取られた。
  • 黄巾残党の郭大らが河西の白波谷で挙兵し、太原・河東を荒らした。白波谷の位置については伝本に異同があり、西河とする説もある。
  • 三月、屠各胡が并州刺史の張懿を殺害した。
  • 太常の劉焉は、各地の兵乱が広がるのは刺史の権威が軽く、人選も適切でないためだとして、刺史を州牧に改め、重臣を任じるよう建議した。劉焉自身は内心では辺遠の交阯に出て難を避けたい思いがあった。
  • 侍中の董扶は劉焉に対し、京師はやがて乱れ、益州には天子の気があると密かに告げた。これは天文分野説に基づき、益州が特定の宿に対応するとする議論である。
  • 当時、益州刺史の郤儉が苛斂誅求で悪名高く、さらに耿鄙・張懿が賊に殺されたこともあって、朝廷は劉焉の建議を採用した。
  • こうして州牧制度が本格化し、劉焉を益州牧、黄琬を豫州牧、劉虞を幽州牧とした。州の長官権限が重くなったのはここからである。
  • 劉虞はかつて幽州刺史を務めて恩信が夷漢双方に浸透していたため、再び幽州に任ぜられた。
  • 董扶と大倉令の趙韙も官を棄てて劉焉に従い蜀へ入った。趙韙の官は郡国から運ばれる穀物を扱う役所であった。

南匈奴の内紛

  • 朝廷は南匈奴の兵を徴発して劉虞に属させ、張純討伐に当てようとした。
  • 単于の羌渠は左賢王に騎兵を率いさせて幽州へ向かわせたが、国人は徴兵が際限なく続くことを恐れ、右部䤈落が反乱した。䤈落は南匈奴右部の一支族名である。
  • 反乱勢力は屠各胡と合流し、十数万となって羌渠を殺した。
  • その後、国人は羌渠の子の於扶羅を立てて持至尸逐侯単于とした。於扶羅はのちに劉淵の祖先として知られる。

夏四月〜六月・中央人事と益州の鎮定

  • 夏四月、太尉の曹嵩が罷免された。
  • 五月、永楽少府の樊陵が太尉となった。
  • 六月、益州で馬相・趙祇らが緜竹で挙兵し、自ら黄巾を称して郤儉を殺し、さらに巴郡・犍為へ進んだ。短期間で三郡に大きな被害を与え、自ら天子を名乗った。
  • 州従事の賈龍が吏民を率いてこれを攻め、数日で撃破した。賈龍はその後、劉焉を迎え入れた。
  • 劉焉は治所を緜竹に移し、離反者を受け入れ、寛大な政治で人心の収攬に努めた。これが後の益州専制の基盤となる。

術士の予言と王芬の失敗

  • 大水害が諸郡国を襲った。
  • 旧太傅陳蕃の子の陳逸は、術士の襄楷と冀州刺史の王芬のもとで会い、宦官一族が天文上の凶兆により滅びると語った。
  • 王芬はこれに乗じて、河間への北巡を利用し、兵で天子を押さえて宦官を誅し、合肥侯を立てようとした。
  • この計画は曹操にも伝えられたが、曹操は、廃立は伊尹・霍光のような忠誠と権勢があって初めて可能であり、軽々に行えば危険だと反対した。
  • 王芬はさらに華歆・陶丘洪にも相談したが、華歆は不成功を見抜いて止めた。
  • そのころ夜空に赤気が天を横切り、太史は北方に陰謀があると奏上したため、北巡は中止となった。
  • 王芬は徴召を受けて恐れ、印綬を解いて逃亡し、平原で自殺した。

秋七月〜八月・西園八校尉の設置

  • 七月、射声校尉の馬日磾が太尉となった。馬日磾は馬融の同族の孫である。
  • 八月、西園八校尉が新設された。
  • 小黄門の蹇碩が上軍校尉となり、袁紹・鮑鴻・曹操・趙融・馮芳・夏牟・淳于瓊らがそれぞれ任じられ、全員が蹇碩の統轄下に置かれた。
  • 霊帝は黄巾の乱以来、軍事に強い関心を持ち、壮健で武略ある蹇碩を重用した。大将軍何進さえその指揮系統に組み込まれるほどであった。

秋九月〜冬十月・朝廷の再編と講武

  • 九月、司徒の許相が罷め、司空の丁宮が司徒となり、光禄勲の劉弘が司空となった。
  • 衛尉で条侯の董重は票騎将軍となった。董重は永楽太后の兄の子である。
  • 冬十月、青州・徐州で黄巾が再び起こり、郡県を侵した。
  • 望気者は京師に大兵と両宮の流血が起こるとし、帝はこれを厭うため、大規模な軍事演習を平楽観で挙行した。
  • 高壇に十二重の華蓋、別壇に九重の華蓋を設け、歩騎数万を布陣させた。帝自ら甲冑を帯び、馬に乗り、無上将軍と称して閲兵した。
  • 帝が蓋勲に感想を求めると、蓋勲は、先王は徳を示して武を誇らず、いま遠方の賊に対して近辺で陣を張るのは武を汚すだけだと諫めた。
  • 帝はこれを善しとしたが、蓋勲は袁紹とともに宦官誅滅を謀ったため、蹇碩に警戒され、京兆尹に出された。

十一月〜年末・西方と北方の戦い

  • 十一月、王国が陳倉を包囲し、朝廷は皇甫嵩を左将軍に復し、董卓とともに四万の兵を率いて防がせた。
  • 張純と丘力居は青・徐・幽・冀四州を抄掠し、公孫瓚が討伐に向かった。
  • 公孫瓚は遼東属国の石門で張純らを大破し、略奪された男女を奪還したが、深入りして補給を失い、逆に遼西の管子城で二百日余り包囲され、多くの兵を失った。
  • 一方、董卓は陳倉救援を急ぐべきだと主張したが、皇甫嵩は、堅城は容易に抜けず、敵が疲弊するのを待ってから撃つのが全勝の道だとして動かなかった。
  • 王国は長期包囲でも陳倉を抜けず、翌年に撤退する伏線となった。