春:黄巾の計画発覚
- 春、張角の弟子で済南の唐周が朝廷に密告し、計画が露見した。
- 馬元義は洛陽で捕らえられ、車裂きにされた。
- 朝廷は三公・司隷に命じて宮中の衛士や民間で太平道に関わる者を調べさせ、千人余りを処刑したうえで、冀州に張角らの追捕を命じた。
二月:黄巾の一斉蜂起
- 張角らは計画の露見を知ると、諸方に急報し、一斉に兵を挙げた。皆が黄色い頭巾を目印にしたため、時人は黄巾賊と呼んだ。
- 二月、張角は天公将軍、弟の張宝は地公将軍、張梁は人公将軍を称した。
- 各地で官府を焼き、城邑を略奪し、州郡は拠点を失って長吏の多くが逃亡した。
- 一か月ほどで天下が呼応し、京師は大きく動揺した。
- 安平・甘陵では住民がそれぞれの王を拘束して黄巾に呼応した。
三月:朝廷の総動員
- 三月戊申、河南尹の何進を大将軍に任じ、慎侯に封じた。
- 何進は羽林・五営の兵を率いて都亭に駐屯し、兵器を整え、さらに函谷・太谷・広成・伊闕・轘轅・旋門・孟津・小平津の八関に都尉を置いて京師を防衛した。
皇甫嵩・呂強の建言
- 群臣会議で、北地太守の皇甫嵩は、党錮を解き、中蔵府の金や西園の馬を軍士に分け与えるべきだと進言した。
- 中常侍の呂強も、党禁への怨みが深く、このままでは人々が張角と結ぶおそれがあるとして、左右の貪官をまず誅し、党人を赦し、刺史・二千石の能否を点検すべきだと主張した。
- 皇帝は恐れてこれに従い、壬子に天下へ大赦を発し、流刑となっていた党人の家族らを帰還させた。ただし張角だけは赦さなかった。
将軍の任命
- 朝廷は精兵を発し、北中郎将の盧植に張角討伐を命じた。
- 左中郎将の皇甫嵩、右中郎将の朱儁には潁川の黄巾討伐を命じた。
宦官専横と呂強の死
- このころ趙忠・張讓・夏惲・郭勝・段珪・宋典らの宦官はみな封侯され、権勢をほしいままにしていた。皇帝自身も張讓を「わが父」、趙忠を「わが母」と呼ぶほどだった。
- 彼らは宮殿並みの邸宅を構え、皇帝が永安候臺に登って自邸を見られるのを恐れて、登れば民が離散すると言って思いとどまらせた。
- だが封諝・徐奉の内通が発覚すると、皇帝は宦官たちを詰問し、党人を危険視してきたお前たちこそ張角と通じているではないかと怒った。
- 宦官たちは罪を王甫・侯覧になすりつけ、自らの縁者を地方官から引き上げようとした。
- 趙忠・夏惲らは逆に呂強を党人と通じる者と讒言し、霍光伝をよく読んでいるのは廃立を考えているからだと疑わせた。
- 呂強は召し出しを受けると、国家の乱が始まると嘆き、自ら獄吏の取り調べを受けるまいとして自殺した。
- その後さらに一族も逮捕され、財産は没収された。
向栩・張鈞の諫言と犠牲
- 侍中の向栩は左右の近臣を風刺して中傷し、張讓に黄巾の内応者だと誣告されて黄門北寺獄で殺された。
- 郎中の張鈞は、張角が乱を起こし民が喜んで従うのは、十常侍が父兄・子弟・姻族・賓客を州郡に散らして利権をむさぼり、民に訴える場がないからだと上書した。
- そして十常侍を斬って南郊に首をさらせば、大軍を動かさずとも大乱は収まると主張した。
- 皇帝はこの上奏を宦官たちに見せたところ、彼らは冠も履も脱いで助命を請い、家財を軍費に出すと申し出た。皇帝は職務復帰を許し、逆に張鈞を狂人呼ばわりした。
- その結果、御史が張鈞を黄巾道の学習者と誣奏し、獄中で拷問死させた。
南陽・潁川・広陽での戦い
- 庚子、南陽の黄巾張曼成が太守の褚貢を殺した。
- 皇帝が黄巾対策を楊賜に問うと、その答えが厳しかったため楊賜は不興を買い、夏四月に罷免された。
- その後、過去の文書を見直した皇帝は、楊賜と劉陶が早くから張角を警告していたことを知り、楊賜を臨晋侯、劉陶を中陵郷侯に封じた。
- 司空の張済は罷免され、大司農の張温が司空となった。
- 皇甫嵩と朱儁は四万余の兵を率いて潁川へ進んだが、朱儁は波才に敗れ、皇甫嵩は長社に拠った。
- 汝南の黄巾は太守の趙謙を邵陵で破り、広陽の黄巾は幽州刺史の郭勲と太守の劉衛を殺した。
長社の火攻めと曹操
- 波才は長社の皇甫嵩を包囲した。嵩の兵は少なく、軍中は恐怖した。
- 賊は草に頼って陣営を築いていたので、大風が吹いた機に、皇甫嵩は兵に苣束を持たせて夜襲させ、外から火を放ち、城上でも火を挙げて呼応した。
- 自らは太鼓を打って城外に突撃し、賊は混乱して敗走した。
- ちょうど騎都尉の曹操が兵を率いて到着し、五月、皇甫嵩・曹操・朱儁は合軍して再戦、大勝して数万を斬った。
- 皇甫嵩は都郷侯に封じられた。
曹操の人物評
- 曹操は中常侍曹騰の養子である曹嵩の子だが、その出自には夏侯氏の子ともいった異説があった。
- 若いころから機敏で権略があり、任侠で放縦だったため、世間ではまだ大人物と見られていなかった。
- ただ太尉の橋玄や南陽の何顒は早くから才能を見抜き、天下の乱を救えるのはこの人だろうと評した。
- 橋玄に勧められて汝南の許劭に会うと、許劭はしぶしぶ「治世の能臣、乱世の姦雄」と評した。曹操はこれを大いに喜んだ。
傅燮の上疏
- 朱儁の護軍司馬である傅燮は、張角の乱は外敵ではなく朝廷内部の邪悪から生じたものであり、黄巾そのものは大きな憂いではないが、宦官を除かなければたとえ張角を滅ぼしても根本は解決しないと上疏した。
- 邪と正は同じ国に並び立てず、讒言が重なれば忠臣は再び無実の死に追い込まれると警告した。
- 趙忠はこれを憎み、傅燮は戦功が多かったのに封侯されなかった。
六月:南陽・交阯の平定
- 六月、南陽太守の秦頡が張曼成を斬った。
- 交阯では歴代刺史が貪欲で、財を蓄えると転任を望んだため、民が怨んで刺史・合浦太守を拘束し、梁達らが柱天将軍を名乗った。
- 三府は東郡の賈琮を交阯刺史に選んだ。
- 賈琮は到任後、反乱の原因を取り調べ、過重な賦役と中央の遠さによる訴えの不能にあると知ると、文書で安心させ、離散民を招き戻し、徭役を免じ、首謀者だけを誅した。
- 良吏を選んで諸県を試補したため、一年足らずで平定され、民は「賈父は来るのが遅かった。もしもっと早ければ先に反乱せずに済んだ」と歌った。
夏から秋:黄巾掃討の進展
- 皇甫嵩・朱儁は勝勢に乗じ、汝南・陳国の黄巾を討った。
- 波才を陽翟で、彭脱を西華で破り、残党は降伏・離散し、三郡は平定された。
- 皇甫嵩は功績を朱儁に譲る上表をし、朱儁は西郷侯に進封され、鎮賊中郎将に遷った。
- その後、皇甫嵩には東郡討伐、朱儁には南陽討伐が命じられた。
盧植の失脚と董卓
- 北中郎将の盧植は張角を連戦連破して広宗に包囲網を築き、濠を掘り、雲梯まで備えて落城寸前にしていた。
- ところが小黄門の左豊が監軍に来て賄賂を求め、盧植が拒むと、帰朝後「賊は容易に破れるのに盧植は高塁を守って手をこまねいている」と讒言した。
- 皇帝は怒って盧植を檻車で召還し、死罪を一等減じたうえで、東中郎将の董卓に交替させた。
七月・八月:米賊と東郡の戦い
- 巴郡では張脩が妖術で病を治すと称し、家ごとに五斗の米を出させて信徒を集めたため、時人は米賊と呼んだ。
- 八月、皇甫嵩は蒼亭で黄巾と戦い、その渠帥の卜已を捕えた。
- 董卓は張角攻めに功なく罪を問われ、乙巳、皇甫嵩が代わって張角討伐を命じられた。
九月:安平王続の処刑
- 安平王の続は不道の罪で誅され、国は除かれた。
- もとは黄巾に捕らえられた王を国人が金を出して救い出し、朝廷はその国を復旧しようとしたが、議郎の李燮は王として藩屏を守れなかったのだから復国は不当だと反対した。
- 朝廷は従わず、李燮は宗室をそしったとして左校に送られたが、一年も経たぬうちに王は誅されたため、再び議郎に戻された。
- 都では「父は帝を立てず、子は王を立てず」と言われた。
冬十月・十一月:広宗・下曲陽の大勝
- 冬十月、皇甫嵩は広宗で張梁と戦った。賊兵は精鋭で最初は勝てなかったが、翌日、わざと陣を閉ざして兵を休ませ、敵の気の緩みを見て夜に軍を整え、明け方に急襲した。
- 午後まで戦って大勝し、張梁を斬り、三万の首級を挙げ、黄河に逃れて死んだ者も五万ほどに及んだ。
- 張角はこれより前に病死しており、棺を暴いて屍を辱め、その首を都へ送った。
- 十一月、皇甫嵩はさらに下曲陽で張宝を討ち、これを斬って十余万を討ち取った。
- その功で左車騎将軍・冀州牧となり、槐里侯に封じられた。
皇甫嵩の軍紀
- 皇甫嵩は兵を厚くいたわり、宿営ではまず幕舎や防備が整うのを待ってから自分も休み、兵士が食べてから自分も食事をした。
- そのため向かうところで功があった。
西方の羌乱と辺章・韓遂
- 北地の先零羌と枹罕・河関の群盗が反乱し、湟中義従胡の北宮伯玉・李文侯を将軍に立て、護羌校尉の泠徴を殺した。
- 金城の辺章・韓遂はもともと西州で名望があったが、群盗に誘拐同然に引き込まれて軍政を担わされ、金城太守の陳懿を殺し、州郡を攻撃した。
蓋勲の剛義
- 武威太守の貪暴を摘発した蘇正和を、刺史の梁鵠は自分の責任を逃れるため殺そうとしたが、漢陽長史の蓋勲は、良吏を殺すのは忠でも仁でもないと諫めて救った。
- 蘇正和は和解を求めたが、蓋勲は「私は梁刺史のために進言したのであって、お前のためではない」として会わなかった。
- その後、別の刺史左昌が軍糧を盗むと、蓋勲はこれも諫め、左昌から阿陽に回されて罪を着せられそうになったが、たびたび戦功を立てた。
- 北宮伯玉が金城を攻めたときも救援を勧めたが左昌は従わず、やがて自ら冀で包囲されると、蓋勲らに救援を求めた。
- 同僚が出動を渋る中、蓋勲は軍令違反の厳しさを説いて出兵させた。
- 冀に到着すると辺章らを叱責し、一時は彼らも過失を認めて退いた。
狐槃の敗戦と蓋勲の名声
- 反羌は校尉夏育を畜官で包囲し、蓋勲は州郡兵とともに救援したが、狐槃で敗れた。
- 蓋勲の残兵は百人に満たず、本人も三か所の傷を負いながら端坐して動かなかった。
- 句就種の羌の滇吾が、蓋勲は賢者だから殺してはならぬと守ったため、羌はその義勇に感じて害さず、漢陽へ送り返した。
- のちに刺史楊雍の上表で、蓋勲は漢陽太守となった。
南陽終戦
- 張曼成の残党は趙弘を渠帥に立て、再び十余万に膨れ上がって宛城を拠点とした。
- 朱儁は荊州刺史の徐璆らとともに六月から八月まで宛を囲んだが落とせず、召還論まで出た。
- 司空張温は、白起や楽毅も年をかけて敵を破ったのだから、ここで将を替えるのは兵家の忌むところだと上疏し、皇帝は朱儁続投を認めた。
- 朱儁は趙弘を斬り、その後、韓忠が小城に籠って降伏を乞うたが、黄巾のような反逆者を許せば、勝てなければ降るという前例になるとして拒んだ。
- ただし力攻めでも落とせないと見ると、司馬張超に、賊は包囲が厳しすぎて死戦するしかないのだと語り、わざと包囲を解いて外へ誘い出した。
- 予想どおり韓忠は出撃し、朱儁はこれを大破して一万余を斬った。
- 南陽太守秦頡が韓忠を殺したが、残党は孫夏を立てて再び宛に籠った。
- 朱儁が急攻すると、司馬の孫堅が先登し、癸巳に宛城を攻略した。孫夏は西鄂の精山まで逃げたが、さらに破られて一万余が斬られた。
- こうして黄巾はほぼ瓦解し、各州郡でも残党数千人単位の誅殺が続いた。
十二月:改元と王允の獄
- 十二月己巳、天下に大赦があり、中平と改元した。
- 豫州刺史の王允は、黄巾を破って張讓の賓客が黄巾と通じた書状を得て朝廷に上げた。
- 皇帝は張讓を責めたが、結局処罰できなかった。張讓はこのことで王允を深く恨み、獄に下した。
- 赦令で一度は刺史に復したが、十日ほどで再び別件で逮捕された。
- 楊賜は二度も辱めを受けさせたくないと考え、王允に自決を勧める使者を送ったが、王允は臣下として君命に対し自害で逃れるのはしないと言って拒んだ。
- しかし大将軍何進・楊賜・袁隗らの請願により、死罪は減刑された。