春三月・夏:赦令と災異
- 春三月辛未、天下に大赦があった。
- 皇后の母に舞陽君の号を与えた。
- 夏は大旱となり、秋には金城で河水が二十余里もあふれ、五原では山岸が崩れた。
張角と太平道の拡大
- 鉅鹿の張角は黄老を奉じ、妖術によって人々に太平道を教え、呪符を混ぜた水で病を治すと称した。病人に罪を告白させ、これで治る者もいたため、民衆は霊験を信じた。
- 張角は弟子を四方に派遣し、十数年のうちに青・徐・幽・冀・荊・揚・兗・豫の八州で数十万の信徒を集めた。財産を売って集まる者も多く、道中で病死する者も万単位にのぼった。
- 郡県では事の危険を理解できず、むしろ善道による教化として評価する者すらあった。
楊賜・劉陶の警告
- 太尉楊賜は、かつて司徒だった時に、張角は赦免されても改めず勢力を広げていると上書し、いきなり討伐すれば騒擾を広げるので、まず流民を本郡へ帰し、党与を孤立させてから首領を誅すべきだと説いた。
- しかし楊賜が失脚したため、その策は宮中に留め置かれたまま実施されなかった。
- 司徒掾の劉陶も再び上疏し、張角らは京師に潜入して朝政をうかがっているとの噂まであるのに、州郡が忌避して報告しないと訴え、重賞を掲げて捜索すべきだと主張した。
- 皇帝はこれを重視せず、むしろ劉陶に『春秋』の条理整理を命じるほどであった。
黄巾蜂起の準備
- 張角は三十六方を設け、大方は一万余人、小方でも六、七千人を擁し、それぞれに渠帥を置いた。
- 「蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉」と流言を広め、都の官署や州郡の役所の門に白土で「甲子」の字を書かせた。
- 馬元義らは荊州・揚州の数万人を集め、鄴で決起する計画を立て、馬元義はしばしば京師に出入りして中常侍の封諝・徐奉を内応者として取り込んだ。
- 三月五日に内外同時に蜂起する約束が結ばれた。