資治通鑑漢紀四十九 孝靈皇帝上之下 熹平元年 前403年
春正月 上陵の礼と蔡邕の所感
- 皇帝は原陵に参拝した。これを見た司徒掾の蔡邕は、古礼では墓前祭祀は本来の形ではないとしつつも、実際の儀仗と趣旨を見て、明帝の深い孝心にもとづくものであり、軽々しく廃すべきではないと評価した。
三月 胡広の死
- 太傅の胡広が八十二歳で死去した。
- 彼は太傅・太尉・司徒・司空を歴任し、三十年以上にわたり高位を往復し、六代の皇帝に仕えた。典故や朝廷の制度に通じ、推挙した人材にも名士が多かったため、京師では「万事が片づかなければ胡伯始に問え」と言われた。
- ただし、温厚で慎重な反面、時勢に迎合して忠直の気風に乏しく、天下の評判は必ずしも高くなかった。
五月 改元と侯覧の自殺
- 天下に大赦があり、元号を長楽と改めた。
- 長楽太僕の侯覧は、専権と奢侈を咎められて印綬を没収され、自殺した。
六月 竇太后の死と合葬論争
- 洛陽で大水が起きた。
- 竇太后は母の死を悲しみ、憂傷から病を得て雲台で崩じた。
- 宦官たちは竇氏を深く怨んでいたため、その遺体を粗略に扱い、市中の家に数日置いたうえ、低い礼で葬ろうとした。
- さらに曹節・王甫らは、竇太后を桓帝と別に葬り、代わりに馮貴人を配祀しようとした。
- これに対し、廷尉の陳球は、竇太后は良家の出で徳があり、皇帝を擁立して宗廟を継がせた大功があること、竇氏一門の罪は太后本人の罪ではないこと、馮貴人には国家への功もなく、墓もかつて暴かれて穢れていることを挙げ、太后は先帝に配されるべきだと主張した。
- 病中の太尉李咸も死を覚悟してこの議論を支持し、公卿以下は陳球の意見に従った。
- 曹節・王甫らはなお、梁后や衛后の前例を引いて反対したが、李咸が再度上奏し、太后は生前に尊号を持ち、かつ皇帝を子として立てた以上、皇帝もまた母として遇すべきだと論じた。
- 皇帝はこれを容れ、竇太后を宣陵に合葬した。
秋七月 誹謗書事件と段熲の弾圧
- 桓思皇后が宣陵に葬られた。
- 朱雀闕に、天下大乱と曹節・王甫による太后殺害、公卿の不忠を非難する書き付けが現れた。
- 司隷校尉の劉猛が捜査を命じられたが、書かれた内容に道理があるとして強引な摘発を避けたため、左遷された。
- 後任の段熲は大規模な逮捕を行い、太学生まで含め千人以上を拘束したうえ、別件で劉猛も処罰した。
張奐・蘇不韋の事件
- 司隷校尉の王寓は宦官に依拠し、太常張奐に推薦を求めて拒まれると、かえって党人の罪に連座させ、張奐に銅を納めさせた。
- 段熲はかつて張奐と羌討伐をめぐって対立しており、司隷となると張奐を敦煌に逐って害そうとしたが、張奐が哀願して免れた。
- 魏郡の李暠は昔の怨みから扶風の蘇謙を殺しており、その子の蘇不韋は埋葬もせず復讐を誓っていた。彼は変名して暠を追い、妾や子を殺し、さらに父の墓を暴いて首を市にさらしたため、暠は恐怖と憤りのうちに死んだ。
- 不韋は恩赦後に帰郷して父を葬ったが、段熲は李暠と親しく、また張奐が蘇氏と親しかったこともあって、不韋を司隷従事に招いた。不韋が病を理由に応じないと、段熲は一門六十余人を皆殺しにさせた。
冬十月 勃海王悝の獄死
- 勃海王悝は、かつて王甫に賄賂を約して復国を求めたが、実際には先帝の遺詔で復国したため、王甫に礼金を返さなかった。
- 王甫はこれを恨み、鄭颯・董騰らが悝と通じていた事実を利用して、謀反の罪をでっち上げた。
- 悝は自殺に追い込まれ、妃妾・子女・伎女多数も獄死し、傅相以下も皆処刑された。
- 王甫ら十二人は、この事件を功として列侯に封ぜられた。
十一月 許生の反乱
- 会稽の句章で妖賊の許生が挙兵し、陽明皇帝を称して数万を集めた。
- 揚州刺史の臧旻と丹陽太守の陳寅が討伐に向かった。
十二月 袁隗の司徒就任と北辺情勢
- 司徒の許栩が罷免され、大鴻臚の袁隗が司徒となった。
- 鮮卑が并州に侵入した。
- この年、南匈奴では単于の車児が死に、子の屠特若尸逐就が立った。