資治通鑑漢紀四十八 孝靈皇帝上之上 建寧 三年 170年

春から夏 公卿の交代

  • 三月丙寅晦日、日食があった。
  • 段熲が京師へ召し返され、侍中に任じられた。彼は辺境に十余年いて、寝所に安んじることなく将士と苦楽をともにし、そのため兵はよく死力を尽くした。
  • 夏四月、太尉郭禧が罷免され、太中大夫の聞人襲が太尉となった。

秋 司空交代と董寵の死

  • 秋七月、司空劉囂が罷免された。
  • 八月、大鴻臚の橋玄が司空となった。
  • 九月、執金吾董寵が、永楽太后の名をかたって請託を行った罪により獄に下され、死んだ。

冬 南方・西域

  • 冬、鬱林太守の谷永が恩信をもって烏滸人十余万を招き、みな内属させて冠帯を受けさせ、七県を新たに設置した。
  • 涼州刺史の孟佗は、従事の任渉に敦煌兵五百を率いさせ、戊己校尉曹寛・西域長史張宴とともに、焉耆・龜茲・車師前後部の兵を合わせて三万余で疏勒を討たせた。元年に疏勒王が殺されて以来の介入であったが、楨中城を四十余日攻めても落とせず、引き揚げた。その後も疏勒王位では互いの殺害が続いたが、朝廷にはもはや収拾する力がなかった。

孟佗が凉州刺史となった経緯

  • 中常侍張讓には、家政を切り回して威勢を振るう監奴がいた。孟佗は資産豊かで、この奴と結んで惜しみなく贈り物をしたため、奴たちは皆その恩を感じた。
  • 奴たちが望みを尋ねると、孟佗は、ただ自分に一度礼をしてくれればよいと言った。
  • 当時、張讓に謁見を求める車は常に数百から千に及んだ。孟佗が遅れて到着して門前で進めずにいると、監奴たちがそろって路上で彼を迎え拝し、そのまま車をかついで門内へ入れた。賓客たちは孟佗が張讓と格別の関係にあると思い込み、こぞって珍宝を賂として贈った。孟佗はそれをさらに張讓に分け与えたので、張讓は大いに喜び、ついに孟佗を凉州刺史にした。