資治通鑑漢紀四十八 孝靈皇帝上之上 建寧 二年 169年

正月から三月 董后の尊崇

  • 正月丁丑、大赦があった。
  • 帝は河間から董貴人を迎え、三月乙巳、これを孝仁皇后と尊んで永楽宮に住まわせた。兄の董寵は執金吾、兄の子董重は五官中郎将となった。

四月 青蛇・暴風と諫言

  • 四月壬辰、青蛇が帝の御座の上に現れた。翌癸巳には大風・雷雨・雹があり、大木百余本が抜けた。帝は公卿以下に封事を上らせた。
  • 大司農の張奐は上疏し、周公の葬礼に失礼があったとき天が雷電を示した故事を引き、竇武・陳蕃の忠貞がまだ明らかに赦されていないために妖異が起きたのだと論じた。両者の遺体を急いで葬り、家族を戻し、連座による禁錮を解き、さらに南宮にいる皇太后にもしかるべき礼を尽くすべきだと求めた。
  • 帝は張奐の言をよしとしたが、宦官たちはこれを憎み、帝は自分の意思だけでは従えなかった。
  • 張奐はまた、劉猛らとともに王暢・李膺を三公候補として推したが、曹節らはますます怒り、詔で張奐らを厳しく責めた。張奐たちは自ら廷尉に下って数日後にやっと許され、三か月分の俸で贖罪した。

謝弼・楊賜の上言

  • 郎中の謝弼は封事を上り、蛇は婦人が政治に関わるしるしであり、竇氏の誅罰を董太后にまで及ぼして南宮に幽閉するのは誤りだと論じた。和帝が竇氏への恩を絶たなかった前例を引き、継嗣として桓帝を父とする以上、竇太后もまた母として遇すべきだと訴えた。また、功臣が顧みられず、乳母や近侍が大封を受けているのも災異の原因だとし、陳蕃の家族の赦免と、無能な公卿の罷免、王暢・李膺の起用を求めた。
  • 左右の者はこれを憎み、謝弼を広陵府丞へ左遷した。まもなく曹節の従子である東郡太守曹紹が別件で謝弼を捕らえ、獄中で拷問死させた。
  • 帝は蛇の怪を光禄勲楊賜に問うた。楊賜は、蛇・龍の怪は君主が中正を立てられず、婦人や外戚に偏ると起こると述べ、后党の権を抑え、艶妻の愛に溺れぬよう諫めた。楊賜は楊秉の子であった。

夏 公卿交代と段熲の最終戦

  • 五月、太尉聞人襲・司空許栩が免ぜられた。
  • 六月、司徒劉寵が太尉、太常許訓が司徒、太僕劉囂が司空となった。劉囂はふだん宦官に附いていたため、公輔にまで上がった。
  • 朝廷は謁者の馮禅を遣わして漢陽の散羌を招降させようとしたが、段熲は、春の農時で百姓が野に散り、羌がいったん降っても官府に備蓄がない以上また盗賊化するだけだ、今こそ兵を放って殲滅すべきだと判断した。
  • 段熲は前進して凡亭山に迫り、騎司馬田晏と仮司馬夏育に五千を与えて先に撃たせ、羌を破った。羌は射虎谷に再集結し、谷の上下を守ったため、段熲はここで一挙に滅ぼし、再び散らせないよう策した。
  • 七月、西県で木柵を二十歩の幅、四十里の長さにわたり築いて退路を遮り、田晏・夏育ら七千に夜のうち西山へ上って営を作らせ、堀を穿たせた。また司馬張愷ら三千を東山に上らせた。羌が気づくと、段熲は東西から挟撃してこれを撃破し、谷の上下口まで追い詰め、各所で撃ち破った。渠帥以下一万九千級を斬った。
  • 馮禅らが招いた四千人は安定・漢陽・隴西の三郡に分置された。これによって東羌はことごとく平定された。
  • 段熲は通算百八十戦、斬首三万八千余級、鹵獲した家畜四十二万七千余頭、軍費四十四億を費やし、戦死した軍士は四百余人だった。新豊県侯に進封され、食邑一万戸を得た。

司馬光の論評に相当する内容

  • この巻には、羌もまた利害を知り生を好み死を憎む点で人と同じであり、服すれば懐柔し、叛けば討つのが本来の道であって、草木禽獣のようにみなして善悪も来去も分けず殲滅するのは民の父母たる政治ではない、という厳しい批判が付される。
  • 羌が叛いた原因は郡県の侵刻と将帥の無能にもあったのだから、よい将に塞外へ逐わせ、よい吏に統治させればよかったはずで、段熲のように多殺を功とするやり方は、勝っても君子の賛同を得られないと断じている。

秋冬 各地の動揺と第二次党錮

  • 九月、江夏蛮が反乱したが、州郡が討って平定した。丹楊の山越も太守陳夤を囲んだが、陳夤が撃破した。
  • 李膺らが禁錮されても、天下の士大夫はかえって彼らの道義を高く評価し、互いに称揚しあって号を立てた。竇武・陳蕃・劉淑を「三君」、李膺・荀昱・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱㝢を「八俊」、郭泰・范滂・尹勲・巴粛・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟を「八顧」、張儉・翟超・岑晊・苑康・劉表・陳翔・孔昱・檀敷を「八及」、度尚・張邈・王孝・劉儒・胡母班・秦周・蕃嚮・王章を「八厨」と呼んだ。
  • 宦官はこれをひどく嫌い、詔のたびに党人禁令を重ねて強めた。とりわけ侯覧は、以前に自分の冢宅を暴かれたことを恨んで張儉を深く憎んでいた。郷里の朱並に命じて、張儉が同郷二十四人と役割を定めて徒党を組み、社稷を危うくしようとしていると上書させた。詔は張儉らの逮捕を命じた。
  • 冬十月、大長秋の曹節はこれに乗じ、故司空虞放、李膺、杜密、朱㝢、荀昱、翟超、劉儒、范滂ら党人の取り調べを州郡に命じるよう奏請した。十四歳の帝は、党人が何の悪事をしたのかと尋ねたが、宦官たちは社稷を図る不軌の徒だと答え、帝はそれを許してしまった。
  • 李膺は逃げよと勧められても、事にあたって難を避けず、罪を逃れないのが臣の節だと言って詔獄に赴き、拷問死した。門生故吏も禁錮された。侍御史景毅は、息子が李膺の門徒でありながら名簿に漏れていたため、自ら表を上って官を辞し、帰郷した。
  • 督郵呉導は范滂逮捕の詔を受けて征羌県に至り、伝舎に閉じこもって泣いた。范滂は自分ゆえだと悟り、みずから獄に赴いた。県令郭揖は印綬を解いてともに逃げようとしたが、范滂は自分が死ねば禍は止まる、母や県令を巻き込めないと断った。母との別れでは、弟の仲博なら孝養を尽くせる、自分は父のもとへ帰るだけだと述べ、母は、李膺・杜密と並ぶ名声を得た以上、長寿まで望めるものではないと諭した。范滂は涙ながらに辞し、子には善を行えと遺言した。道行く人はみな泣いた。
  • 党人として死んだ者は百余人、妻子は辺境へ流され、豪傑・儒者・義行ある者まで一律に党人とされ、私怨による誣告も横行し、死罪・流徙・禁錮に処された者はさらに六七百人にのぼった。
  • 郭泰は党人たちの死をひそかに痛み、国の柱石が亡びて漢室も長くないと嘆いた。しかし普段は人物批評を好んでも危険な激論を避けていたため、自身には禍が及ばなかった。

張儉・夏馥らの逃避

  • 張儉は亡命して各地の門をたたき、その名行を重んじる人々が家を破る覚悟でこれを匿った。東萊では李篤の家に潜んだが、役人の毛欽が兵をもって来ても、李篤は張儉を名士としてかばい、毛欽も心を動かされて去った。さらに北海の戯子然の家を経て、ついには漁陽から塞外へ出た。そのため十数家が重罪に連座し、郡県はひどく荒廃した。
  • 張儉は魯国の孔褒を頼ったが会えず、その弟孔融が十六歳でこれを匿った。発覚後、国相が孔褒・孔融兄弟を獄に送ったが、孔融は自分が匿ったと言い、孔褒は兄を頼ってきたので弟の罪ではないと言い、母も家事は長子に任せているのだから自分が罪を受けると言って、家族で死を争った。郡県では決しがたく、朝廷に上申した結果、孔褒が罪を受けた。党禁が解けた後、張儉は郷里に帰り、のち衛尉となって八十四歳で卒した。
  • 夏馥は、禍は自分たちから起こって良善を巻き込んだとして、ひげを剃り姿を変え、林慮山中で鍛冶屋の雇人となり、二、三年誰にも知られなかった。弟が絹を持って来ても、禍を運んでくるなと拒み、党禁が解けぬうちに死んだ。
  • 中常侍張讓の父が潁川で葬られたとき、郡中の者はみな参列したが名士で弔う者はほぼいなかった。陳寔だけは弔問したため、のちに張讓はその恩を思って、党人誅殺の際にも陳寔には比較的寛大だった。
  • 何顒も逮捕対象となったが、名を変えて汝南に隠れ、袁紹と結んで洛陽にひそかに出入りし、党事に連座した名士たちの逃亡・救援に策をめぐらせ、多くを助けた。
  • 袁氏では、袁成・袁逢・袁隗が顕官を歴任し、宦官の袁赦も同姓であることから外援として推していたため、一族の富貴はきわめて盛んだった。袁紹は威容と人望を備え、賓客が雲集した。袁術も侠気で知られた。他方、従兄の子の袁閎は、家門が徳を守らず驕奢と権争いに走るのは晋の三郤のようだと嘆き、母の老いのため遠遁はせず、庭に土室を築いて十八年も隠棲した。
  • 申屠蟠は、士人が盛んに論議する風潮を見て、戦国の処士横議が秦の焚書坑儒に至ったのと同じ道だと察し、梁・碭の間に隠れた。果たして范滂らが禍に遭い、自分だけは難を免れた。
  • この巻には、乱世にあって位にもいない党人たちが口舌で天下を救おうとし、人物を褒貶して濁を撃ち清を揚げたのは、蛇の頭をつつき虎狼の尾を踏むような危うさだったとする厳しい評も付されている。郭泰の慎みと申屠蟠の先見は、とりわけ及びがたいとされる。
  • 庚子晦日、日食があった。
  • 十一月、太尉劉寵が免ぜられ、太僕郭禧が太尉となった。
  • 鮮卑が并州に侵入した。
  • 長楽太僕の曹節が重病となり、車騎将軍に任じられた。やがて快癒すると、印綬を返して再び中常侍となり、特進・中二千石の秩を得た。
  • 高句驪王伯固が遼東・玄菟に侵攻したが、太守耿臨が討って降した。