資治通鑑漢紀四十六 孝桓皇帝 延熹 二年 159年

春二月〜六月 辺境の侵攻と梁皇后の死

  • 春二月、鮮卑が鴈門を侵した。
  • 蜀郡の夷が蠶陵を侵した。
  • 三月、刺史・二千石に三年喪を行うことを再び禁じた。
  • 夏、京師で大洪水が起こり、六月には鮮卑が遼東を侵した。
  • 梁皇后は姉である順烈皇后と兄梁冀の威勢を頼み、きわめて奢侈で嫉妬深く、後宮の他の女性たちを近づけなかった。太后の死後は恩寵が衰え、子もなかったため、宮人の懐妊を忌み嫌った。
  • 皇帝も梁冀を恐れてあからさまには怒らなかったが、皇后への訪れはしだいに少なくなった。
  • 秋七月、皇后梁氏が死去し、のち懿獻皇后として懿陵に葬られた。

梁冀一門の専横

  • 梁冀一族は、前後して七侯・三皇后・六貴人・二大将軍を出し、食邑を持つ女性も多く、卿将尹校に当たる者だけで五十七人に及んだ。
  • 梁冀は権勢をほしいままにし、宮中の衛士や近侍にも自派を配置して、禁中の微細な動向まで掌握した。
  • 各地の調発や貢献はまず梁冀のもとへ最上品が送られ、天子向けはその次であった。官を求めたり罪の赦免を頼んだりする者が道にあふれ、百官の昇進者はまず梁冀邸へ礼を言いに行ってから尚書省へ赴いた。

梁冀に抗した者たち

  • 下邳の呉樹が宛令に赴任する際、梁冀の賓客たちが土地で便宜を求めたが、呉樹は「将軍は賢者を進めて朝政の欠を補うべきで、悪人のために口利きすべきでない」と面と向かって批判した。
  • 呉樹は赴任後、梁冀のために人々を害していた者数十人を誅殺した。のち荊州刺史となる際、梁冀は彼を毒殺した。
  • 遼東太守侯猛は初任のあいさつに梁冀邸へ行かなかったため、梁冀は別件にかこつけて腰斬にした。
  • 郎中の袁著は、梁冀に対して功成り名遂げた今こそ引退すべきだと上書したが、密かに追われ、死を装って逃れたものの、やがて捕らえられて笞殺された。
  • 郝絜・胡武も梁冀におもねらず、高士を薦めて梁冀に通じなかったため、一族ごと大きな被害を受けた。郝絜は棺を載せて自ら書を上し、服毒して死ぬことで家を救った。
  • 安帝の嫡母耿貴人の遺品を梁冀が林慮侯耿承に求め、得られなかったため一族十数人を殺した。

崔琦の諷諫

  • 涿郡の崔琦は文章で梁冀に重んじられていたが、『外戚箴』『白鵠賦』を作って外戚専権の害を諷した。
  • 梁冀が怒ると、崔琦は管仲や蕭何を引いて、真の宰相は諫言を受け入れるべきであり、士の口を塞いで主君の耳目を閉ざすべきでないと正面から論じた。
  • 梁冀は言い返せず、いったん崔琦を帰したが、のち捕らえて殺した。

八月 梁冀誅滅

  • 梁冀は大将軍となってから二十年近く、内外に威を振るい、天子でさえ自由に親しく交わる相手を持てないほどだった。
  • 皇帝はもとより彼を快く思っておらず、陳授の獄死以後は怒りを強めていた。
  • そこへ、梁冀が梁紀の妻の娘・鄧猛を養女に仕立てて入宮させ、さらにその実母を口封じに殺そうとしたことが露見した。邴尊もこれに反対して殺されている。
  • 皇帝は宦官の単超・左悺・徐璜・具瑗・唐衡らと密議し、梁冀兄弟誅殺を決断した。単超の腕を噛んで血盟を結んだという。
  • 八月丁丑、梁冀が疑いを抱いて張惲を入省させたのをきっかけに、具瑗がこれを逆用して行動を起こし、皇帝は前殿で尚書たちに命じて兵を整えた。
  • 虎賁・羽林・剣戟士ら千余人が司隷校尉張彪とともに梁冀の邸宅を包囲し、光禄勲袁盱が節を持って大将軍印綬を没収した。
  • 梁冀と妻孫寿はその日のうちに自殺し、梁不疑・梁蒙は先に死んでいたが、梁氏・孫氏の内外の親族はことごとく獄に送られ、幼長を問わず処刑された。関係者の公卿・列校・刺史・二千石にも多数の死者が出た。

梁氏没落後の処置

  • 太尉胡広・司徒韓縯・司空孫朗は梁冀に阿附し、宮城防衛を怠った罪で、死一等を減じて庶人とされた。
  • 故吏・賓客で罷免された者も三百余人に上り、朝廷は一時ほとんど空になった。
  • 事件は急に宮中から発せられたため、使者が飛び交い、官府も市場も数日騒然としたが、民衆はみな歓喜した。
  • 梁冀の財産を官が売却したところ三十億万以上に達し、王室財政に入れたうえで天下の租税を半減し、苑囿も貧民に与えた。

梁皇后の廃扱いと「五侯」

  • 壬午、梁貴人が皇后に立てられた。
  • 先の懿陵は貴人の墓に格下げされ、皇帝は梁氏を憎んで新皇后の姓をいったん薄氏に改めた。のちに真の出自が鄧香の娘だとわかり、鄧氏に戻した。
  • 梁冀誅殺の功により、単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡はそろって県侯に封じられ、単超は二万戸、他の四人も一万戸余を食んだ。世にこれを「五侯」と呼んだ。
  • 尹勲ら七人にも亭侯の封が与えられた。
  • 黄瓊が太尉、祝恬が司徒、盛允が司空となった。

范滂の登場

  • 梁冀誅殺の直後、天下は新政を期待した。
  • 黄瓊はまず州郡で平素から暴虐・汚職の著しい者十余人を奏劾し、死罪や流罪にしたため、世論はこれを称えた。
  • 黄瓊が范滂を辟召すると、范滂は清廉で気節高い人物として州里に知られていた。清詔使として冀州を巡察した際には、「天下を澄清しよう」という志を抱き、守令の汚職者が風を聞いただけで印綬を解いて逃げるほどだった。
  • 謡言の採訪を命じられると、范滂は刺史・二千石や権豪の仲間二十余人を弾劾した。尚書が件数の多さを咎めても、民害の大きい者を先に挙げただけだと堂々と答えた。

五処士の徴召

  • 尚書令陳蕃は、徐穉・姜肱・袁閎・韋著・李曇の五人を在野の賢人として推薦した。
  • 皇帝は安車と玄纁を備えた礼で招いたが、五人とも応じなかった。
  • 徐穉は自ら耕して生活し、労せず得たものを食べず、謙譲と徳行で郷里に敬われた。陳蕃が豫章太守のときに特に礼を尽くし、徐穉のためにのみ榻を設け、帰るとこれを吊したという。
  • 姜肱は二弟と孝友で名高く、盗賊に襲われたとき互いに自分を殺して弟や兄を助けてほしいと願ったため、盗賊さえ感じ入って放免した。
  • 袁閎は袁安の玄孫で、節を守って出仕しなかった。
  • 韋著は隠れて講学し、世事に関わらなかった。
  • 李曇は継母に対してきわめて孝養を尽くし、郷里の模範とされた。

魏桓・鄧氏・宦官専権

  • 皇帝はまた安陽の魏桓も召したが、魏桓は後宮や厩馬や権豪を減らせないなら出仕しても志は行えないとして辞退した。
  • 皇帝は梁冀誅滅後、旧恩により鄧猛の父鄧香を車騎将軍・安陽侯に追封し、母宣を昆陽君とし、兄や子弟にも列侯・郎将を多く与えた。
  • 中常侍侯覧も高価な絹を献じて関内侯となり、さらに梁冀誅滅に参与したと称して高郷侯に進封された。小黄門劉普・趙忠ら八人も郷侯に封じられた。
  • これ以後、権勢は決定的に宦官へ移っていった。

李雲・杜衆の直諫と死

  • 五侯がとくに貪欲で、内外を震わせる一方、災異がたびたび現れた。
  • 白馬令の李雲は、露布の上書を三府にも回し、梁冀は誅されたとはいえ、家臣を絞め殺した程度のことであり、それをもって五侯に万戸以上を与えるのは高祖の法にも反し、西北の将兵も心を失うと痛烈に批判した。
  • 皇帝は激怒して李雲を逮捕し、北寺獄で管霸らに審問させた。弘農五官掾の杜衆は李雲をかばって自分も同日に死なせてほしいと上書したため、こちらも逮捕された。
  • 大鴻臚陳蕃、太常楊秉、洛陽市長沐茂、郎中上官資らが赦免を求めたが、皇帝はさらに怒り、陳蕃と楊秉を罷免し、沐茂・上官資も降格した。
  • 濯龍池にいた皇帝の前で管霸は、李雲も杜衆も田舎の愚直者で重罰に値しないとひざまずいて述べたが、皇帝は「帝が物事をつまびらかにしようとしないとは何事か」と叱り、結局二人とも獄死した。

黄瓊の痛論

  • 嬖幸と宦官の横暴がいよいよ増すなか、太尉黄瓊は自分では抑えられないと悟り、病と称して出仕をやめた。
  • 上疏では、梁氏の専横に続いて宦官が朝廷に満ち、李固・杜喬に続き李雲・杜衆までが忠言のために誅されたことで、朝野が忠を口にするのもはばかるようになったと述べた。
  • また、周永らが梁冀衰亡を見て急に忠臣を装いながら封侯を得たこと、宦官一党がもともと梁氏と結んでいたのに、その罪を梁氏に押しつけて褒賞を受けたことを強く批判した。
  • 真偽を見極めず、忠臣と佞臣を同時に顕彰するのは、玉を砂礫にまぜ、珪璧を泥に砕くようなものだと諫めたが、奏上は容れられなかった。

冬十月〜十二月 単超への厚遇と羌討伐

  • 冬十月、皇帝は長安へ行幸した。
  • その最中、病となった単超を車騎将軍に任じた。
  • 十二月、皇帝は長安から還った。
  • 燒當・燒何當・煎勒姐ら八種の羌が隴西・金城方面を侵し、護羌校尉段熲がこれを破って羅亭まで追撃し、首級二千余、生口一万余を得た。
  • さらに、陳蕃を光禄勲に、楊秉を河南尹に復帰させた。

単超一族事件と第五種

  • 単超の兄の子、単匡が済陰太守となると、権勢を頼んで貪欲・放縦にふるまった。
  • 兗州刺史第五種は従事衛羽に調査させ、五、六千万にのぼる不正を掴んで、単匡とともに単超も弾劾した。
  • 単匡は追及を恐れて刺客任方に衛羽を殺させようとしたが、衛羽はこれを察知して任方を捕らえた。
  • 単匡は河南尹楊秉が事件を究明するのを恐れ、ひそかに任方を逃亡させた。楊秉はなお単匡を檻車で召し出して取り調べるべきだと主張したが、かえって左校送りの刑を受けた。
  • また、泰山賊叔孫無忌の鎮圧失敗を理由に、第五種も朔方へ流された。胡注は、このあたりの年代や責任関係には諸伝で食い違いがあると指摘する。
  • ただし第五種は、旧吏の孫斌が追いかけて奪い返し、数年の逃亡生活ののち、恩赦で免れた。

陳蕃の封爵批判

  • 封賞が制度を越え、近臣への寵遇が甚だしい状況に対し、陳蕃は上疏した。
  • 追録された鄧万世や黄雋の先人の微功による封爵、近習や左右への無功の賞与、一門で数侯を出すあり方は、高祖の法に背き、天文や陰陽の乱れまで招いていると述べた。
  • また後宮の采女数千人が国家財政を圧迫していることも批判し、「五人以上の娘を持てば家は貧しくなる」という俗諺を引いて、後宮の膨張は国を貧しくすると論じた。
  • 皇帝はやや耳を貸し、宮女五百余人を出したが、封爵の方はやめず、黄雋には関内侯、鄧万世には南郷侯を与えた。

爰延の諫言

  • 皇帝が侍中爰延に「自分はどの程度の君主か」と問うと、爰延は「中主である」と答えた。つまり、善にも悪にも導かれうる君主だという意味である。
  • その理由として、陳蕃が政治を担えば治まり、宦官や黄門が政に関われば乱れるからだと述べた。
  • 皇帝はこれを聞いて、かつて朱雲が欄檻を折ってまで直諫した故事を引き、面前での率直な諫言を評価した。
  • 後に客星が皇帝の座を犯した際、爰延は封事で、鄧万世を厚遇し、宮中で博戯まで共にするのは威厳を損ねると戒め、佞人を遠ざけて剛直な臣を用いるよう説いたが、皇帝は従わなかった。
  • 爰延は病を理由に退いた。