資治通鑑漢紀四十五 孝桓皇帝 永興 一年 153年
改元と諸王家の変動
- 春三月、帝は鴻池に行幸した。
- 夏四月丙申、天下に大赦があり、元号を永興と改めた。
- 丁酉、済南悼王広が子なく薨じ、国は除かれた。
蝗害・洪水・流民
- 秋七月、三十二郡国で蝗害が起こり、河水も氾濫した。
- 百姓は飢え苦しみ、流亡した家は数十万戸にのぼり、とくに冀州の被害が甚だしかった。
朱穆の冀州刺史としての活躍と失脚
- 詔により侍御史朱穆が冀州刺史となった。
- 冀州の令長たちは、朱穆が黄河を渡って来ると聞いただけで四十余人も印綬を解いて逃げた。
- 朱穆は到着すると諸郡の貪汚を弾劾し、中には自殺する者や獄死する者も出た。
- ところが宦官趙忠が父を安平に葬る際、身分を越えて玉匣を用いたため、朱穆は郡に命じて調べさせた。郡吏はその厳しさを恐れ、墓を暴いて棺を割り、遺体を引き出した。
- 皇帝はこれを聞いて大いに怒り、朱穆を召して廷尉に付し、左校での労役刑に処した。
- 太学生劉陶ら数千人は宮門に上書し、朱穆は国家を憂えて中官の横暴を正そうとしただけだと訴え、自分たちが代わって刑を受けたいとまで願った。
- 帝はその訴えを読んで、ようやく朱穆を赦した。
三公の交代
- 冬十月、太尉袁湯が罷免され、胡広が太尉、黄瓊が司徒、房植が司空となった。
武陵蛮と西域の動向
- 武陵蛮の詹山らが反乱したが、武陵太守応奉が招降した。
- 車師後部王阿羅多は、戊部候厳皓と不和になって反乱し、屯田を攻めて吏士を殺傷した。
- 後部侯炭遮は残民を率いて阿羅多に背き、漢側へ降った。
- 阿羅多は北匈奴へ逃れたため、敦煌太守宋亮は、旧王軍就の質子卑君を立てて後部王とした。
- のち阿羅多が再び戻って卑君と国を争い、国人を集めたので、戊校尉厳詳は争乱拡大を防ぐため阿羅多に再度の即位を許すと約し、阿羅多は降った。
- そこで阿羅多を改めて王とし、卑君は敦煌に送還され、後部の民三百帳がこれに付けられた。