資治通鑑漢紀四十五 孝桓皇帝 元嘉 一年 151年
張陵、梁冀を弾劾
- 春正月朔日の朝会で、梁冀が佩剣したまま禁中へ入った。
- 尚書張陵はこれを厳しく呵責し、虎賁・羽林に命じて剣を奪わせた。梁冀が跪いて謝っても応じず、張陵はそのまま弾劾して廷尉に論罪させるよう求めた。
- 詔によって梁冀は一年分の俸で贖罪となったが、百官は粛然とした。
- 河南尹梁不疑は、かつて孝廉に推挙した張陵に対し、それが自分への罰になったと漏らしたが、張陵は公義をもって私恩に報いたのだと答えた。
梁氏兄弟の不和
- 梁不疑は経書を好み士を礼遇したため、梁冀に疎まれた。
- 光禄勲へ移され、その河南尹の地位には十六歳の梁祧が就けられた。容貌が醜く、威儀も整わず、人々に嘲笑された。
- 梁不疑は兄弟の不和を恥じて職を譲り、弟梁蒙とともに邸に閉居した。
- 梁冀は彼らが賓客と交わるのを嫌い、人を変装させて出入りを監視させた。
- 南郡太守馬融と江夏太守田明が新任の途中で梁不疑に挨拶しただけで、梁冀は有司に命じて二人を罪に陥れ、髠刑・笞刑のうえ朔方へ流した。馬融は自殺を図ったが死にきれず、田明は途中で死んだ。
皇帝の微行と楊秉の諫疏
- 夏四月己丑、皇帝は微行して河南尹梁祧の邸に赴いた。
- その日、大風で木が抜け、昼なお暗くなった。
- 尚書楊秉は上疏し、天子の出入りには厳重な規則があり、郊廟など正規の行幸でない限り、臣下の家へ私的に赴くべきではない、空宮に璽綬を置いて万一変事が起これば取り返しがつかないと諫めたが、帝は聞かなかった。
旱魃・飢饉と三公の交代
- 京師は旱魃に見舞われ、任城・梁国では民が飢えて人を食うまでになった。
- 司徒張歆が罷免され、光禄勲呉雄が司徒となった。
北匈奴の侵攻
- 北匈奴の呼衍王が伊吾を侵し、伊吾司馬毛愷を破って屯城を攻めた。
- 詔により敦煌太守馬達が兵を率いて救援に向かい、蒲類海に達すると、呼衍王は撤退した。
武陵蛮の反乱
独行の士の推挙と崔寔の政論
- 冬十月、司空胡広が致仕した。
- 十一月、京師で地震があった。
- 詔して百官に独行の士を挙げさせ、涿郡は崔寔を推薦したが、崔寔は病と称して対策に応じず、退いて『政論』を著した。
- その内容は、承平が久しく続くと風俗は衰え、君主がそれに気づかず、忠臣は保身し、卑賤の臣の正論は退けられるため天下が治まらない、とするものであった。
- また、時勢に応じた権変を説き、徳教だけでは乱世を救えず、刑罰もまた治乱の薬石であると論じ、孝宣帝の厳格な政治を高く評価した。
- 司馬光は、これは一時の弛緩を矯めるための議論であって、永遠不変の道ではないと評している。
梁冀への過度な優遇
- 閏月、任城節王崇が子なく薨じて国は除かれた。
- 太常黄瓊が司空となった。
- 皇帝は梁冀を褒賞したいと考え、中朝の高官に礼遇の程度を議させた。
- 胡広・羊溥・祝恬・辺韶らは、梁冀の功徳は周公に比すべきで、山川・土田・附庸まで賜うべきだと唱えた。
- ただ黄瓊だけが、すでに大封賞を受けている以上、鄧禹の例にならい四県を食ませる程度で十分と述べた。
- 朝廷は黄瓊の案を採り、梁冀には入朝不趨・剣履上殿・謁讃不名の特権が与えられ、定陶・陽成などを加えて四県を食ませ、邸宅や車馬、奴婢、金帛の賞も霍光級とされた。
- 朝会では三公と席を別にし、十日に一度は尚書省に入って政事を裁くことになったが、梁冀はなお不満であった。