資治通鑑漢紀四十五 孝桓皇帝 和平 一年 150年

梁太后の崩御と親政開始

  • 春正月、天下に大赦があり、元号を和平と改めた。
  • 乙丑、梁太后は政務を皇帝に返し、ここに称制が終わった。
  • 二月、梁太后が崩じた。
  • 三月、皇帝は北宮へ移り、甲午に順烈皇后を葬った。

梁冀・孫寿の奢侈

  • 梁冀にはさらに一万戸が加封され、総計三万戸となった。
  • 梁冀の妻孫寿は襄城君に封じられ、陽翟の租税もあわせて受け、儀礼上も長公主に準じる待遇を与えられた。
  • 孫寿は媚態で梁冀を惑わし、梁冀はこれを深く愛して畏れもした。
  • 梁冀は寵奴の秦宮を太倉令まで出世させ、孫寿のもとにも自由に出入りさせたため、その威勢は甚だしかった。
  • 梁冀夫妻は道を挟んで豪華な邸宅を構え、園林・築山・珍禽異獣を集めて贅沢を尽くした。輦車で邸内をめぐり、歌舞音曲にふけり、来客も門番に賄賂を渡さなければ通れなかった。
  • さらに近県にまで林苑を広げ、洛陽城西に兎苑をつくって生兎を各地に徴発し、誤って殺した者には死罪を科した。西域商人が禁令を知らず兎を殺したため、連座で十数人が死んだ。
  • 別邸には亡命人や悪人をかくまい、良民を奪って奴婢とし、「自売人」と称した。

梁氏一門・孫氏一族の専横

  • 梁冀は表向きは梁氏の者を退けて謙譲を装ったが、実際には孫氏一族を重用し、侍中・卿・校尉・郡守・長吏に十余人を送り込んだ。
  • 彼らはみな貪婪凶暴で、私客に命じて属県の富民を調べ上げ、別件で逮捕して拷問し、金を出させて赦すことを常とした。
  • 士孫奮は富豪でありながら吝嗇だったため、梁冀に金を十分貸さなかったことを恨まれ、母を梁家の蔵の婢と偽って莫大な盗難と反逆の罪を着せられ、兄弟ともども獄死し、全財産を没収された。
  • 梁冀の使者は辺境にまで赴いて珍物を探し、その道中でも婦女を奪い、役人を殴打したので、各地で恨みを買った。

朱穆の再諫

  • 侍御史朱穆は、かつて梁冀の故吏である立場から、重税・強奪・不適任な牧守の横行が結局は梁冀に天下の怨みを集めていると上書し、邸宅や園池の造営を減らし、献上を断ち、姦吏の後ろ盾になるのをやめるよう勧めた。
  • しかし梁冀は受け入れなかった。
  • なお梁冀は朝政を専断しながらも、宦官やその子弟・賓客を州郡の要職に就けて、さらに自らの地盤を固めようとしていた。朱穆は重ねて極諫したが、梁冀は悟らなかった。

陳蕃・延篤の排斥

  • 梁冀は楽安太守陳蕃に私的な依頼をしたが受け入れられず、使者が詐って会見を求めたところ、陳蕃はこれを見抜いて笞殺した。このため修武令へ左遷された。
  • 皇子の病のため珍薬を求める命が出た際、梁冀の客が京兆に牛黄を売り込もうとしたが、京兆尹延篤は外戚が皇子の病に乗じて利益を得るのは不当だとしてその使者を殺した。
  • 梁冀は恥じたが、有司に命じて延篤の責任を追及させ、延篤は病を口実に免官した。

生母匽氏のさらなる尊崇

  • 夏五月、博園匽貴人を孝崇后とし、その宮を永楽宮と号し、太僕・少府以下の官属を長楽宮にならって置いた。
  • 鉅鹿郡から九県を割いて、その湯沐邑とした。

梓潼山の崩壊

  • 秋七月、梓潼山が崩れた。