資治通鑑漢紀四十四 孝順皇帝 永嘉 元年 145年

冲帝崩御と後継問題

  • 春正月戊戌、皇帝が玉堂前殿で崩じた。年三歳。
  • 梁太后は揚州・徐州の盗賊が盛んなため、召された諸王侯が到着するまで発喪を待とうとしたが、太尉の李固は、幼主といえども天下の父であり、死を隠すのは臣下として許されない、秦の沙丘や北郷侯の旧事のような大忌だと強く諫めた。太后は従い、その日の夕方に発喪した。
  • 清河王蒜と渤海孝王鴻の子の纘が召されて京師に至った。蒜は清河王家、纘は楽安夷王寵の系統である。
  • 清河王蒜は威厳があり法度を守る人物で、公卿は多く彼に帰心した。
  • 李固は梁冀に対し、新帝には年長で明達、徳があり親政に堪える者を選ぶべきだとして、周勃・霍光が壮者を立てた例を挙げ、鄧氏・閻氏が幼主擁立で乱れた前例を戒めた。
  • しかし梁冀は従わず、太后と禁中で策を定めた。
  • 丙辰、梁冀は王青蓋車で纘を迎えて南宮に入れ、丁巳には建平侯に封じ、その日のうちに皇帝位に即けた。年八歳。蒜は封国へ帰された。

懐陵と李固への中傷

  • 山陵を卜定するにあたり、李固は、盗賊と軍費で財政が苦しい上に憲陵造営も終わらぬので、幼帝の陵は建陵の塋内に康陵の例にならって簡素に営むべきだと述べ、太后はこれに従った。
  • 己未、孝沖皇帝は懐陵に葬られた。
  • 太后は政務を宰輔に委ね、李固の意見を多く採用した。悪事をなす宦官も一斉に追放され、天下は治平を期待した。
  • しかし梁冀は李固を深く憎んだ。もともと順帝朝の人事には越次の者が多く、李固は在職中に百余人を免官にしていたので、彼らも恨みを抱き、梁冀の意向をうかがって飛章を作り、李固が公をもって私を営み、近戚を離間し、支党を拡大し、国喪中にも化粧して姿態を飾り、旧制度を勝手に変えているなどと誣告した。
  • 梁冀はその奏を太后に示して処分を求めたが、太后は応じなかった。

張嬰再反・梁並の平羌

  • 広陵賊の張嬰が再び数千人を集めて反乱し、広陵に拠った。
  • 二月乙酉、大赦があった。
  • 西羌との長年の戦争には八十余億もの費用がかかり、諸将は軍糧を中抜きし、賄賂で上下を買収して兵を顧みなかったため、多くの兵士が野に白骨をさらしていた。
  • 左馮翊の梁並は恩信で叛羌の離湳・狐奴ら五万余戸を招き降し、隴右は再び平定された。

徐・揚の盗賊平定

  • 太后は徐州・揚州の盗賊がいよいよ激しくなるのを受け、将帥を広く求めた。三公は涿県令の滕撫を文武の才ありとして推し、九江都尉に任じて中郎将の趙序とともに馮緄を助け、州郡兵数万人を率いて討たせた。さらに賞金・封邑も広く募った。
  • 李固を太尉のまま派遣する議もあったが、実行前に三月、滕撫らが進撃して賊を大破し、馬勉・范容・周生らを斬って千五百級を挙げた。徐鳳は残党とともに東城県を焼いた。
  • 夏五月、下邳人の謝安が募兵に応じ、宗族を率いて伏兵を設け、徐鳳を斬った。謝安は平郷侯に封じられた。
  • 滕撫は中郎将となり、揚州・徐州二州を督した。
  • 丙辰、陵制の次序が乱れていたため、恭陵と康陵の上下関係を正す詔が出た。
  • 六月、鮮卑が代郡を侵した。
  • 秋、廬江の盗賊が尋陽を攻め、さらに旴台を攻めたが、滕撫の司馬王章が破った。
  • 九月庚戌、太傅の趙峻が薨じた。
  • 滕撫は張嬰を進撃し、冬十一月丙午にこれを破って千余人を斬獲した。丁未、中郎将の趙序は臆病で、しかも首級を水増しした罪により棄市となった。
  • 歴陽賊の華孟が黒帝を称して九江太守の楊岑を殺したが、滕撫はこれも破って華孟ら三千八百級を斬り、七百余人を虜とした。こうして東南はことごとく平定され、軍は整って帰還した。滕撫は左馮翊に任じられた。

種暠・杜喬と梁冀

  • 永昌太守の劉君世が黄金で蛇文を鋳たものを梁冀に献上したが、益州刺史の种暠がこれを摘発して逮捕し、飛駅で朝廷に報告した。
  • 梁冀はこれを恨んだ。ちょうど巴郡人の服直が数百人を集めて天王を称し、种暠と太守の応承が討って敗れ、吏民に被害が多く出たので、梁冀はこれに乗じて二人を逮捕させた。
  • 李固は、被害は种暠らの本意でなく、下吏が法を恐れて賊を深追いした結果であり、奸悪を摘発した者をかえって罪すれば州県はみな隠蔽に走ると上疏した。太后は奏を見て、种暠・応承を赦し、免官にとどめた。黄金の蛇は大司農に納められた。
  • 梁冀はさらに大司農の杜喬にその黄金蛇を見せるよう求めたが、杜喬は貸さなかった。
  • また梁冀の幼女が死んだ際、公卿がみな弔問する中、杜喬だけは出向かなかったため、梁冀は深く恨んだ。