資治通鑑漢紀四十四 孝順皇帝 漢安 元年 142年

改元と八使派遣

  • 春正月癸巳、大赦があり、改元して漢安元年となった。
  • 秋八月、南匈奴の句龍吾斯と薁鞬台耆らが再び反乱して并州を侵した。
  • 丁卯、侍中の杜喬・周挙、守光禄大夫の周栩、馮羨、欒巴、張綱、郭遵、劉班らが州郡を巡行し、賢良忠勤を表彰し、貪汚ある刺史・二千石は駅馬で急奏、墨綬以下はその場で逮捕できることとなった。

張綱の梁冀弾劾

  • 張綱だけは雒陽都亭で車輪を埋め、「豺狼が道にいるのに、どうして狐狸を問うのか」と言い、大将軍梁冀と河南尹梁不疑を弾劾した。
  • 梁氏兄弟が外戚として阿衡の任にありながら、貪欲と放恣をほしいままにしているとして、その「無君の心」十五事を列挙したため、京師は震えあがった。
  • しかし皇后の寵愛は盛んで、梁氏の姻戚が朝廷に満ちていたので、皇帝は張綱の直言を知りつつも用いることができなかった。

八使の不徹底と李固徴召

  • 杜喬は兗州に至り、泰山太守李固の政治を天下第一と上奏し、李固は将作大匠に徴された。
  • だが八使の弾劾の多くは梁冀と宦官の親党に及んだため、互いに救い合って多くが握りつぶされた。
  • 侍御史の种暠はこれを憎み、再び行って調査した。廷尉の呉雄、将作大匠の李固も、八使が糾弾した案件は急いで処分すべきだと上言したので、皇帝は改めて八使の奏章を審理させた。

張綱の広陵平定

  • 梁冀は張綱を恨み、害する口実を求めていた。ちょうど広陵賊の張嬰が揚州・徐州の間で十余年乱を続けていたため、梁冀は張綱を広陵太守にした。
  • それまでの太守はみな兵を求めたが、張綱は単車で赴任し、到着するとただちに張嬰の砦に赴いた。張嬰は驚いて閉門したが、張綱が数人だけを残して誠意をもって面会を求めたため、ついに出てきた。
  • 張綱は、歴代の二千石の貪暴が反乱を招いたのであり、今は天子が恩徳で服させようとしているのだから、禍を福に変える時だと説いた。
  • 張嬰はこれを聞いて涙を流し、明日には部衆一万人余りと妻子を率いて面縛し降伏した。
  • 張綱は大いに酒宴を開いて彼らを慰め、部衆を帰農させ、居宅や田地の世話までし、子孫で官に就きたい者は召し抱えた。そのため南州は安定した。
  • 論功行賞では本来封侯されるべきであったが、梁冀が妨げた。張綱は在郡一年で卒し、張嬰ら五百余人が喪服を着て送葬し、犍為まで付き従って墳墓を築いた。

良吏三人

  • 当時の二千石長吏で治績ある者として、雒陽令の任峻、冀州刺史の蘇章、膠東相の呉祐が挙げられた。
  • 任峻は文武の吏を適材適所に用い、奸を素早く発覚させた。威禁は厳しかったが、政治教化の整い方では王渙には及ばなかった。
  • 蘇章は故人である清河太守の贓汚を、旧交を温める宴の翌日に公法に照らして断罪した。そのため州境は粛然としたが、権豪を抑えたことで上意に忤って免官された。
  • 呉祐は仁恕と簡易を尊び、百姓は欺くに忍びなかった。嗇夫の孫性が民の金で父に衣を買って贈った件では、その孝心を汲んで自首を受け入れ、衣を返して父に贈らせた。

人事と羌降伏

  • 冬十月辛未、太尉の桓焉・司徒の劉寿が免官となった。
  • 罕羌の五千余戸が趙冲に降り、ただ焼何種だけが参䜌に拠ってなお下らなかった。
  • 甲戌、張喬軍の屯駐が解かれた。
  • 十一月壬午、司隷校尉の趙峻が太尉となり、大司農の胡広が司徒となった。