資治通鑑漢紀四十四 孝順皇帝 永和 六年 141年

馬賢戦死と羌勢拡大

  • 春正月丙子、征西将軍の馬賢が射姑山で且凍羌と戦って敗れ、馬賢と二子はともに戦死した。東羌・西羌はこれを機に大きく結集した。
  • 閏月、鞏唐羌が隴西を侵し、さらに三輔に及んで園陵を焼き、官民を殺掠した。
  • 二月丁巳、営室に彗星が現れた。

梁商の宴と周挙の不吉視

  • 三月上巳、大将軍梁商は賓客を集めて雒水で大宴会を開き、酒宴の末に薤露の歌を奏した。
  • 従事中郎の周挙はこれを聞き、悲しみと楽しみの時を失った不祥な徴であり、災いが及ぶだろうと嘆いた。

趙冲の戦果と皇甫規の建言

  • 武都太守の趙冲が鞏唐羌を追撃し、四百余級を斬り、二千余人を降した。詔により河西四郡兵の節度を委ねられた。
  • 安定の上計掾であった皇甫規は、以前から羌の反乱を予見し、馬賢の敗北も予測していたと述べ、辺境戦争に費えた莫大な費用は民を苦しめ奸吏を肥やしただけだと批判した。
  • また、辺将は小利に競って首級を偽り、敗北を隠し、兵は温飽も戦功も得られず路傍に白骨をさらしているとして、自分に五千兵を与えれば趙冲と呼応して討平できると願った。しかし皇帝は採用しなかった。

人事と北辺戦

  • 庚子、司空の郭虔が免官となり、丙午に太僕の趙戒が司空となった。
  • 夏、使匈奴中郎将の張耽と度遼将軍の馬続が鮮卑を率いて穀城から出撃し、通天山で烏桓を大破した。
  • 鞏唐羌は北地を侵し、北地太守の賈福と趙冲がこれを撃ったが不利だった。

梁商の死と梁冀の昇進

  • 秋八月、乗氏忠侯の梁商が病篤となり、子の梁冀らに対し、自分は生前朝廷の役に立てなかったのだから、死後に帑蔵を空費するな、玉匣や珠貝などは朽骨に益しないと遺言した。
  • 丙辰、梁商が薨じると、皇帝は親臨し、朝廷は遺言に反して厚葬を賜い、中宮も自ら見送った。皇帝も宣陽亭まで出て車騎を見送った。
  • 壬戌、河南尹で乗氏侯の梁冀が大将軍となり、弟の不疑が河南尹となった。
  • 周挙は梁商の臨終の推薦によって諫議大夫に任じられた。

羌乱と李固の治績

  • 九月、諸羌が武威を侵した。
  • 辛亥晦、日食があった。
  • 冬十月癸丑、羌の侵攻で涼州が震駭したため、安定郡を扶風に、北地郡を馮翊に再び移した。
  • 十一月庚子、執金吾の張喬に車騎将軍の事を行わせ、兵一万五千を率いて三輔に屯させた。
  • 荆州では盗賊が長年鎮まらなかったため、大将軍府従事中郎の李固が荆州刺史に任じられた。
  • 李固は到着すると、前科を赦して更始を与える方針を示し、賊帥の夏密ら六百余人が自縛して降った。李固はみな赦して帰し、互いに誘わせたため、半年ほどで州内は平定された。
  • その後、南陽太守の高賜らの贓汚を奏劾したが、彼らが梁冀に賄賂を贈ったため、梁冀は急使で救おうとした。それでも李固は追及を緩めず、梁冀によって泰山太守へ左遷された。
  • 泰山でも李固は大兵を解散して百余の精兵だけを残し、恩信で盗賊を招いたため、一年足らずで盗賊は散じた。