資治通鑑漢紀四十四 孝順皇帝 永和 五年 140年
南匈奴の反乱
- 春二月戊申、京師で地震があった。
- 南匈奴の句龍王吾斯・車紐らが反乱し、西河に侵入して右賢王を誘い、美稷を包囲し、朔方・代郡の長吏を殺した。
- 夏五月、度遼将軍の馬続と中郎将の梁並らが辺兵と羌胡を合わせて二万人余りを率い、これを奇襲して破った。だが吾斯らは再び集結し、城邑を攻め落とした。
- 天子が単于を責める使者を送ると、単于は自分は謀議に加わっていないとして帽子を脱ぎ、帳前で謝罪した。
- 梁並が病で召還されると、五原太守の陳亀が中郎将に代わった。陳亀は単于が部下を制御できないとして、単于とその弟の左賢王を自殺させ、さらに近親を内地に移そうとしたため、いったん降った者まで疑いを抱くようになった。陳亀は下獄・免官となった。
梁商の対匈奴策
- 大将軍梁商は、匈奴は追いつめられた獣のように死を免れようとしているだけで、ことごとく討ち尽くすのは現実的でないと述べた。
- そして、辺事に通じる馬続に任せ、深い壕と高い塁で守りを固めつつ、恩信と賞格で反乱者を招降すべきだと上表した。皇帝はこれに従った。
- 梁商はさらに馬続らに書を送り、野戦は遊牧勢力の長所で城守は中国の長所だから、長所を先に用い、軽々しい小功で大計を乱すなと戒めた。その結果、右賢王部の抑鞮ら一万三千口が馬続に降った。
- 己丑晦、日食があった。
涼州・三輔の羌乱
- 那離らが平定された後、朝廷は来機を并州刺史に、劉秉を涼州刺史にしたが、二人とも生来酷虐で徴発も多かったため、且凍・傅難種の羌が反乱した。
- 彼らは金城を攻め、雑種羌胡とともに三輔で大規模な侵掠を行い、長吏を殺した。来機らは罪を得て召還された。
- これを受け、馬賢が征西将軍、耿叔が副将となり、羽林・五校士および諸州郡兵十万人が漢陽に屯した。
- 九月、扶風・漢陽に命じて隴道に塢三百所を築き、屯兵を置いた。
- 辛未、太尉の王龔が老病により罷めた。
- 且凍羌は武都を侵し、隴関を焼いた。
- 壬午、太常の桓焉が太尉となった。
車紐擁立と辺郡移転
- 匈奴の句龍王吾斯らは車紐を立てて単于とし、東では烏桓を、西では羌胡を集め、数万人で京兆の虎牙営を攻め破り、上郡都尉・軍司馬を殺した。その後、并・涼・幽・冀の四州を寇掠した。
- このため西河郡は離石に、上郡は夏陽に、朔方郡は五原に治所を移した。
- 十二月、使匈奴中郎将の張耽が幽州の烏桓や諸郡営兵を率いて馬邑で車紐らと戦い、三千級を斬り、多くの生口を得た。車紐は降伏を乞うたが、吾斯はなお部衆を率いて烏桓とともに掠奪を続けた。
馬融・皇甫規の批判
- 馬賢の出征に際し、梁商は老齢の馬賢より太中大夫の宋漢を推したが、皇帝は用いなかった。
- 馬賢は軍に到っても進まず、武都太守の馬融は、羌がまだ完全に合流しないうちに深入りして支党を打つべきなのに、馬賢らは各地で滞留し、しかも幕舎に珍味を並べ妻妾を侍らせていると厳しく批判した。さらに、このままでは古の高克のように軍が瓦解すると警告した。
- 安定人の皇甫規もまた、馬賢は軍務を顧みず必敗だと上書したが、朝廷は聞き入れなかった。