春正月 郎顗の災異対策
- 正月、帝は北海の郎顗が陰陽に通じると聞き、公車で召して災異を問うた。
- 郎顗は上章して、三公は天の三台に応じ人君の股肱でもあるのに、今の大臣たちは高論に逃げ、重い俸禄を受けながら天下の憂いを持たず、病を口実に退いては策文と賜銭を得るとすぐ復帰する、と厳しく批判した。
- また、園陵火災には民力を労する修造を止めること、春寒には良臣を抜擢すること、今年は少陽の年なので春の旱・夏の水に備え節約を守ること、宮女を整理して婚嫁を許すこと、羌乱に備えることなど、七か条の便宜を述べた。
- さらに、漢は三百三十九年に達し、一つの周期に当たるので、法令の一新も必要だとし、文帝以来三百年を経て軽微な禁令が積み重なっているから、江河のように避けやすく犯しにくい法に改めるべきだと説いた。
- 二月、郎顗はさらに黄瓊と李固を推挙し、冬から春にかけて雨がなく、西風が節に逆らっているのに、祈祷や龍の祭祀ばかり行っても、天は偽りでは動かない、まず自らを責めよと述べた。
- 帝は郎顗を郎中に任じたが、病を理由に就任しなかった。
三月 鮮卑撃破
- 三月、使匈奴中郎将趙稠は従事に南匈奴兵を率いさせて塞外へ出し、鮮卑を破った。
宋娥・梁冀封侯をめぐる左雄の諫争
- 順帝が即位した際に関与した乳母宋娥は山陽君に封じられ、執金吾梁商の子梁冀も襄邑侯に封じられた。
- 尚書令左雄は封事を上げ、高祖の「劉氏以外は王とせず、功なき者を侯としない」という原則を引き、安帝が江京・王聖らを封じたことで地震などの災異を招いたと主張した。
- 青州では飢饉と盗賊がやまず、この時に小恩を追録して大典を損なうべきでないとして反対した。
- 帝が聞き入れないと、左雄は再び、王聖は生前天下に咀嚼され、死んで人々に喜ばれたほどであり、宋娥は節倹で名望があるのだから王聖と同じ爵号を与えればかえって本来の操を失わせると諫めた。
- また梁冀の封も急ぐべきでないと述べた。
- そのため梁商は自ら譲表を十余回出し、帝もしだいに折れて、梁冀の封はひとまず見送られた。
夏四月から五月 地震と直言の詔
- 四月己亥、京師で地震があった。
- 五月庚子、帝は公卿以下に罪の所在を率直に述べさせ、あわせて敦樸の士を各一名ずつ推挙させた。
- 左雄は再び、宋娥封君のたびに地震が起きており、陰が専政する徴で災いはより大きい、阿母には財貨で報いるべきで官爵を与えるべきではないと上疏した。
- 宋娥自身も恐れて辞退したが、帝はなお思い切れず、結局は封じてしまった。
九卿への捶撲停止
- このころ大司農劉拠が職務上の失で召し出され、尚書で急がされ、さらに鞭打ちを受けた。
- 左雄は、九卿は三公に次ぐ大臣であり、礼楽の節を備えた身分なのだから、捶撲は古典にもなく不当だと上言した。
- 帝はこれを容れ、以後、九卿に対する捶撲はなくなった。
司空交代と地裂
- 戊午、司空王龔が免官された。
- 六月辛未、孔扶が司空となった。
- 丁丑、洛陽の宣徳亭で地が裂け、長さ八十五丈に及んだ。
敦樸の士の対策 李固・馬融・張衡
- 帝は敦樸の士たちを召して策問し、とくに時政の弊を尋ねた。
- 李固は、安帝が阿母に封爵したことから妖孽と嫡統の乱れが起こり、今また宋阿母を封じるのは旧典に反すると述べた。
- 梁氏一門についても、外戚に過度の権勢を与えれば閻氏の轍を踏むとして、梁冀らを外職から退け、政を国家へ返すべきだと主張した。
- 宦官の子弟についても、侍中・尚書の子弟に禁がある以上、中常侍の子弟にこそ常禁を設けるべきだとした。
- さらに、些細な例外が旧章を破壊する端緒になると戒め、尚書は北斗のように王命を出納する要であるから人選を慎重にせよと説いた。
- 宦官の員数を削減し、常侍二人・小黄門五人ほどに絞ることまで提案した。
- 馬融は、法令はすでに十分整っているが、民がなお嘆くのは恩沢が声だけで実を伴わないからだとし、婚礼・喪祭の節約で民生を安定させることを説いた。
- 張衡は、孝廉選挙が本来の孝行重視を失い、章句や奏案の技能を優先するのは本末転倒だとし、曾参のように孝に優れていても文学に劣る者を排除してしまうと批判した。
- また、守相を一度に十数人も免黜すれば、送迎の疲弊が増し、民の便を奪うと述べ、今こそ改めを憚るべきでないと論じた。
- 帝は諸対策を見て李固を第一とし、すぐに阿母を邸へ帰らせ、常侍たちも謝罪したため、朝廷はひとまず粛然となった。
李固失脚と諸士の処遇
- 李固は議郎となったが、阿母と宦官たちは彼を憎み、偽の飛章で罪に陥れようとした。
- 事は中から下され、黄尚らが梁商に救援を求め、黄瓊も弁護したため、長くしてようやく釈放された。
- その後、李固は雒令に出されたが、官を棄てて漢中へ帰った。
- 馬融も議郎となり、張衡も文学・六芸・天文・陰陽・暦算に通じ、渾天儀を作り『霊憲』を著した。
- 張衡は才能が高かったが驕らず、機巧にも優れていた。
龐参の失脚
- 太尉龐参は三公の中で最も忠直と評されたが、しばしば側近に讒言された。
- 推挙人事が帝意に逆らったため、司隷がその件を調査した。
- 茂才・孝廉の会の日、龐参は弾劾を受けたため病と称して出席しなかった。
- これに対し、広漢の上計掾段恭は、道行く人や農婦までも龐参を忠賢と称えている、讒佞が忠臣を傷つけるのは国家の大禁だとして、最後まで任用して社稷を安んじるよう上疏した。
- 詔で小黄門が見舞いに遣わされ、太医も羊酒を届けたが、その後、龐参の夫人が病み、前妻の子が井戸に身を投げて死ぬ事件が起きた。
- 雒陽令祝良がこれを奏し、秋七月己未、龐参は災異も口実としてついに免官された。
八月 鮮卑の勢い衰える
- 八月己巳、施延が太尉となった。
- 鮮卑が馬城へ侵入し、代郡太守がこれを撃ったが勝てなかった。
- しかしまもなく鮮卑の其至犍が死んだため、鮮卑の掠奪はしだいに少なくなった。