資治通鑑漢紀 孝順皇帝上 陽嘉元年 132年

春正月から三月 梁皇后立后と改元

  • 正月乙巳、貴人梁氏が皇后に立てられた。
  • 京師では旱魃が続いた。
  • 三月、揚州六郡で妖賊章河らが四十九県を寇掠し、長吏を殺傷した。
  • 庚辰、天下に大赦があり、元号を陽嘉と改めた。

夏四月から冬 梁商・鮮卑・左雄の建言

  • 梁商は特進を加えられ、まもなく執金吾となった。
  • 冬、耿曄は烏桓の戎末魔らに鮮卑を襲撃させて大勝した。
  • その後、鮮卑は再び遼東属国へ侵入し、耿曄は無慮城へ移駐してこれに備えた。

左雄の吏治改革論

  • 尚書令左雄は上疏し、近ごろ地方長官の転任が激しく、皆が目前の成績だけを追って長期の教化を考えないと論じた。
  • 無辜を殺して威とし、苛斂を能とし、法を守る者をむしろ無能とみなす風潮が、上下に広がっていると批判した。
  • そこで、治績の明らかな守相・長吏はその地で加秩してむやみに移すべきでなく、父母の喪でもない限り去官させるなと主張した。
  • 逆に法を守らず、勅命に従わない者は終身禁錮し、逃亡して赦免を利用する者は辺郡へ家ごと移すべきだとした。
  • また、郷官・部吏のような親民官には儒生や清白で政治能力のある者を用い、租税負担を軽くし、俸禄を増して職務に専念させよと述べた。
  • 帝はその言に感じ、無故去官の禁をあらためて申明し、有司に真偽の吏治を審査させた。
  • ただし宦官が不便とみなしたため、最終的には十分に実施されなかった。

孝廉年齢制限の制定

  • 左雄はさらに、孝廉は四十歳未満を察挙すべきでないと奏し、諸生は家法の試験、文吏は牋奏の試験を受けてから初めて選挙に応じさせるよう求めた。
  • 茂才・異行の者だけは年齢制限を設けないこととした。
  • 帝はこれに従った。
  • しかし胡広・郭虔・史敞は、選挙は才に応じるべきで年齢で一律に縛るべきでない、古来の制度を一臣の建議だけで改めるのは軽率だとして反対した。
  • 帝はその反論を退け、辛卯に初めて郡国の孝廉を四十歳以上に限ることを正式に定めた。
  • のちに広陵が若年の徐淑を孝廉に挙げたが、左雄が「顔回や子奇ほどの才があるのか」と問い詰め、徐淑は答えられず罷免され、郡守も免官となった。
  • 袁宏は、この制度はやや偏しているが、左雄が公正に真偽を審査したため、以後は軽率な推挙が減ったと評している。

年末 恭陵火災

  • 閏月庚子、恭陵の長大な廡が火災に遭った。