資治通鑑漢紀 孝順皇帝上 永建六年 131年

春二月 河間王と沈景

  • 二月庚午、河間孝王開が死去し、子の政が跡を継いだ。
  • 河間王政は傲慢で法を守らなかったため、帝は侍御史の沈景を有能と見て河間相に抜擢した。
  • 沈景が着任して王に謁見すると、王は正装もせず、殿上で箕踞していた。
  • 沈景は礼を取らず、「それではただの常人と見分けがつかない。無礼な者に会いに来たのではない」と言い放った。
  • 王は恥じて改めて服を正し、その後に沈景は拝した。
  • 沈景はさらに王傅を責め、監督不行届を奏上したうえ、奸人を捕えて重罪者数十人を処刑し、百余人の冤獄を晴らした。
  • これにより河間王政は態度を改め、自らを修めるようになった。

三月 伊吾屯田の再開

  • 帝は伊吾が肥沃で西域に近く、匈奴がこれを掠奪の拠点としていると考えた。
  • 三月辛亥、和帝永元年間の旧例にならって伊吾の屯田を再開し、伊吾司馬一人を置いた。

太学の再建

  • 安帝は学芸を軽んじ、博士の講習も絶え、学生は怠け、学舎は荒れて菜園や放牧地のようになっていた。
  • 将作大匠翟酺が修復と後学奨励を上疏すると、帝はこれに従った。
  • 秋九月、太学の再建が始まり、二百四十房・千八百五十室が造営された。

烏桓・羌との辺境政策

  • 護烏桓校尉耿曄は兵を出して鮮卑を破った。
  • 護羌校尉韓皓は湟中から両河の間へ屯田を移して羌に圧力をかけようとした。
  • しかし羌は屯田が近づいたことで攻撃を恐れ、かえって仇敵どうしが盟約して備えを固めた。
  • 後任の馬続は、羌の不安を和らげるため屯田を湟中へ戻すよう上奏し、羌も安堵した。

皇后選定をめぐる上疏

  • 帝は皇后を立てようとしたが、寵愛する貴人が四人あり、誰を選ぶべきか決めかねて、籤を引いて神意で決しようと考えた。
  • 尚書僕射胡広・郭虔・史敞は上疏し、皇后選定を卜筮に委ねた前例はなく、たとえ当人に当たっても徳による選定ではないと諫めた。
  • 良家から徳ある者を選び、年齢や容貌が同じなら経典と聖慮で決すべきだと述べた。
  • 帝はこの意見を受け入れた。
  • 候補の梁氏は、恭懐皇后の弟の子で、乗氏侯梁商の娘である。
  • 彼女はしばしば召されても、後宮に雨露を広く施すべきだとして、自分一人への偏愛を辞退したため、帝はいっそう賢いと考えた。