資治通鑑漢紀四十一 孝安皇帝上 元初 二年 115年

春〜夏:龐参の招撫と閻后の冊立

  • 春、護羌校尉の龐参は恩信によって諸羌を招き、号多らを率いて降らせた。彼らを都へ赴かせて侯印を賜わせたのち帰した。龐参はようやく令居へ帰り、河西道を通じさせた。
  • 零昌は兵を分けて益州を寇したため、中郎将の尹就が討伐に向かった。
  • 四月、貴人の閻氏を皇后に立てた。閻后は鄧宏の妻の同母姉妹の家に連なる縁故があり、これが立后の背景となった。
  • 皇后は嫉妬深く、後宮の李氏が皇子保を生むと、李氏を毒殺した。これは後に皇子保が廃される伏線となる。
  • 五月、京師で旱魃、河南および十九郡国で蝗害があった。
  • 六月、太尉の司馬苞が死去し、七月に馬英が太尉となった。

秋:遼東鮮卑と羌討伐の失敗

  • 八月、遼東鮮卑が無慮を包囲した。九月には夫犂営も攻め、県令を殺した。夫犂県の所在や典拠については注で検討されている。
  • 同月晦日、日食があった。
  • 尹就は羌党の呂叔都らを討ち、蜀の人陳省・羅横がこれを刺殺したので、みな侯に封じて賞した。
  • 屯騎校尉の班雄を三輔に屯させ、左馮翊の司馬鈞に征西将軍を代行させて関中諸郡兵八千余を統べさせた。龐参は羌胡兵七千余を率い、司馬鈞と分道して零昌を攻めた。
  • 龐参は勇士東で杜季貢に敗れて退き、司馬鈞らだけが進んで丁奚城を落とした。杜季貢は偽って逃げた。
  • 司馬鈞は右扶風の仲光らに羌の禾稼を刈り取らせたが、仲光らは命令を無視して深入りし、羌の伏兵に遭って三千余人が戦死した。司馬鈞は城中で怒りながらも救援せず、そのまま逃げ帰った。龐参も期日に遅れ、病と称して退いたため、二人とも召されて獄に下された。司馬鈞は自殺した。
  • このころ、度遼将軍の梁慬も別件で罪を受けた。校書郎中の馬融は上書して、龐参・梁慬はともに智略ある人物であり、過失を宥めて功をもって償わせるべきだと論じ、詔によって赦された。年代の前後関係には伝本上の齟齬があり、胡三省が検討している。

冬:任尚再起用と虞詡の進用

  • 馬賢が龐参に代わって護羌校尉を兼ね、任尚は再び中郎将として班雄の後任として三輔に屯した。
  • 懐県令の虞詡は任尚に、歩兵では日行数百里の羌騎を追えないから、諸郡兵をやめて金を出し合い、多数の騎兵を整えるべきだと説いた。尾行・遮断していけば、羌の行路は自ずから窮するという策であった。
  • 任尚はこれを上奏して採用し、軽騎で杜季貢を丁奚城に破った。
  • 太后は虞詡に将帥の才があるとみて、武都太守に任じた。就任途上、数千の羌が陳倉の崤谷で道を遮ったが、虞詡は進軍を止めて援軍要請を装い、その隙に敵が周辺へ分散すると、昼夜兼行して一日百余里進んだ。孫臏が減竈で敵を欺いたのに対し、自分は逆に竈を日々増やして兵が多いように見せ、羌に追撃をためらわせた。

武都太守虞詡の治績

  • 郡に着くと手元の兵は三千に満たなかったが、羌一万余が赤亭を数十日包囲した。虞詡は強弩を隠して弱い弩だけを放ち、羌に油断させた後、二十張の強弩で一人を狙うよう命じ、百発百中で敵を震え上がらせた。
  • さらに翌日には兵を東郭から出して北郭から入れ、衣服を替えて何度も繰り返し、兵数が多いように見せた。羌は互いに恐れ合って退却しようとした。
  • 虞詡はあらかじめ浅瀬に伏兵五百余を置いていたため、羌が逃走して渡河しようとしたところを襲い、大破した。
  • その後、地勢を見て百八十の営壁を築き、流民を呼び戻し、貧民を仮貸で救い、水運を開いて郡の物流を回復させた。赴任時には米一石千銭・塩一石八千、戸数一万三千だったが、三年後には米八十・塩四百、戸数は四万余に増え、一郡は安定した。

年末:武陵蛮の反乱と鄧宏の葬礼

  • 十一月、十郡国で地震。
  • 十二月、武陵の澧中蛮が反乱したが、州郡が平定した。
  • 司徒の夏勤が罷免され、劉愷が司徒、袁敞が司空となった。袁敞は袁安の子である。
  • 前虎賁中郎将の鄧宏が死去した。彼は質素な人柄で、欧陽尚書を修め、禁中で皇帝に授業していた。
  • 有司は驃騎将軍・特進・西平侯の追贈を奏したが、太后は生前の質素な志を重んじ、位階の追贈は行わず、衣服も盛大にせず、ただ金千萬・布萬匹を賜った。鄧隲らはこれも辞退した。
  • その子の広徳が西平侯を継ぎ、さらに西平都郷を分けて弟の甫徳を都郷侯とした。葬礼では五営兵や軽車騎士を発して霍光の故事にならう案も出たが、太后はこれも許さず、白蓋車と双騎、門生による輓送にとどめた。