春三月 地震と諸王の死
- 庚辰、隴西で地震があった。
- 癸巳、済南安王康が死去した。
西域・車師後王の討伐
夏四月・五月 封建
- 丁卯、楽成王党の子巡を楽成王に封じた。
- 五月、皇后の父で屯騎校尉の陰綱を呉房侯に封じ、特進として第に就かせた。
旱蝗
秋 鮮卑寇と祭参の失脚
- 八月、鮮卑が肥如を寇した。
- 遼東太守祭参は防戦不備の責任を問われて下獄され、獄死した。
閏月 竇太后の崩御と梁氏の回復
- 閏月辛巳、皇太后竇氏が崩じた。
- もと梁貴人が死んだとき、宮中は秘密にして真相が知られていなかったため、皇帝は梁氏の縁者である舞陰公主の子梁扈を通じ、その従兄梁襢に三府へ訴えさせた。梁貴人は聖躬を育てたのに尊号がないとして、再議を求めた。
- 太尉張酺がこれを奏上すると、皇帝は深く感じ入り、梁氏への追尊を考えるようになった。
- ちょうど梁貴人の姉の娘である樊調妻嫕が上書し、父梁竦の冤死と一族の流離を訴えた。
- 皇帝が嫕を引見して事情を知ると、梁貴人が無実のまま死んだ実態が明らかになった。
- 三公は、かつて光武が呂太后を扱った故事にならい、竇太后の尊号を貶し、先帝と合葬しないよう請奏した。
- 百官にも同調する意見が多かったが、皇帝は、竇氏に非はあっても太后自身はしばしば節減しており、自分も十年これに仕えた、臣子に尊者を貶める礼はないとして、議論を打ち切った。
- 丙申、章徳皇后を葬った。
迷唐の大規模侵攻
- 燒唐羌の迷唐は、兵八千を率いて隴西を寇し、塞内の諸種羌を脅して歩騎三万を合わせ、隴西兵を破り、大夏長を殺した。
- 朝廷は劉尚に征西将軍を行わせ、越騎校尉趙世を副将として、漢兵と羌胡三万人でこれを討たせた。
- 劉尚は狄道、趙世は枹罕に駐屯し、司馬寇盱に諸郡兵を監督させて四方から会戦を図った。
- 迷唐は恐れて老弱を捨てて臨洮南山へ逃れたが、漢軍は高山でこれを大破し、千余を斬った。
- ただし漢軍の損害も大きく、深入りして追撃はできず、撤兵した。
秋冬 梁氏の追尊
- 九月庚申、司徒劉方は策免され、自殺した。
- 甲子、梁貴人を追尊して皇太后とし、諡を恭懐とし、服喪の制度も復した。
- 冬十月乙酉、梁太后とその姉の大貴人を西陵へ改葬した。
- 樊調を羽林左監に抜擢し、梁太后の父梁竦を褒親愍侯と追封して諡し、その柩を迎えて恭懐皇后陵のそばに葬った。
- 梁竦の妻子を召し返し、子の梁棠を楽平侯、梁雍を乗氏侯、梁翟を単父侯に封じ、いずれも特進とし、巨万の賞賜を与えた。
- こうして梁氏はこの後、大いに勢力を盛り返した。
清河王慶と宋氏の回復
- 清河王慶は、これを機にようやく生母宋貴人の墓を求めることを願い出た。皇帝は許し、太官に四時の祭具を給させた。
- 慶は涙を流して、生前に奉養できなかったが祭祀だけでも尽くせると喜んだが、梁氏の例になぞらえて祠堂建立を願うのははばかられ、終生の遺恨とした。
- のちには外祖母王氏の病治療を名目に、宋氏一族の帰京を願い、皇帝はこれを許した。
- 慶の舅の宋衍・宋俊・宋蓋・宋暹らはみな郎に任じられた。
年末の人事と甘英西使
- 十一月癸卯、光禄勲の河南呂蓋を司徒に任じた。
- 十二月丙寅、司空張奮を罷め、壬申に太僕韓稜を司空に任じた。
- 西域都護で定遠侯の班超は、掾甘英を大秦・条支へ派遣した。
- 甘英は西海沿岸に至り、歴代未踏の地の風俗・産物を調査したが、安息西界の大海で、渡海には順風でも三か月、遅風なら二年かかり、三年分の食糧を持つべきで、望郷の情から死ぬ者も多いと聞き、そこで引き返した。