資治通鑑漢紀 肅宗孝章皇帝 章和 二年 88年

春正月 諸王入朝と恩寵過多への諫言

  • 済南王康・阜陵王延・中山王焉が入朝した。
  • 皇帝は親族への情が深く、叔父にあたる済南王・中山王をしばしば都へ招き、兄弟諸王も京師にとどめて本国へ帰さず、群臣への賞賜も制度を超えていたため、国庫はしだいに空虚になった。
  • 何敞は宋由に書を送り、水旱・辺患で民力が尽きている時こそ節用すべきだとし、過度の臘賜を改め、王侯を帰国させ、苑囿の禁や浮費を減らし、貧民を救うよう勧めた。
  • 尚書宋意もまた、諸王への家人同様の厚遇は君臣秩序を乱すと上疏し、西平王羨ら諸王は早く封国へ赴くべきだと主張した。

二月 章帝崩御

  • 皇帝はまだ諸王を送り返さないうちに、壬辰の日、章徳前殿で崩じた。年三十一。
  • 遺詔で寝廟を新設せず、葬制は先帝の法に従うよう命じた。
  • 范曄の評では、章帝は明帝の苛察に比べて寛厚で、人を知り、明徳太后に孝を尽くし、徭役を軽くして民を安んじた「長者」とされる。

新帝即位と三月の措置

  • 太子が十歳で即位し、皇后は皇太后となった。
  • 三月、遺詔により西平王羨を陳王、六安王恭を彭城王へ移封した。
  • 癸卯、孝章皇帝を敬陵に葬った。

南匈奴の単于交代

  • 南単于宣が死去し、前単于長の弟屯屠何が立って休蘭尸逐侯鞮単于となった。

竇憲、権力を掌握

  • 皇太后が臨朝すると、侍中竇憲が宮中で機密を握り、詔命の宣布を担った。弟の竇篤は虎賁中郎将、竇景・竇瓌も中常侍となり、兄弟そろって要地を占めた。
  • 崔駰は書を送って、外戚が富貴により驕傲に陥る危険を戒め、野王・陰興らの節度を学ぶよう諭した。
  • さらに、漢代の外戚のうち一族を保った者はごく少数であるとして、殷の前例に鑑みて慎むよう強く警告した。

三月から四月 鄧彪と諸王の帰国

  • 皇太后は故太尉鄧彪を太傅に任じて関内侯の爵を与え、録尚書事とした。百官は総じてこれに従う体制となった。
  • 竇憲は、鄧彪が先帝に敬われ、しかも柔順で自分に逆らわぬ人物であることを見込んで重用し、実際の施策はまず鄧彪に外向きに奏させ、内では太后に取り次いで、ことごとく自説を通した。
  • 癸亥、陳王羨・彭城王恭・楽成王黨・下邳王衍・梁王暢がようやく封国へ出発した。
  • 四月には遺詔により郡国の塩鉄専売を廃し、民間の製塩・鋳鉄を許した。

夏から秋 北匈奴の内乱と南単于の北伐請願

  • 京師は旱魃に見舞われ、北匈奴は飢えと混乱のため、年々数千人が南部へ降った。
  • 七月、南単于は、今こそ北匈奴の内紛に乗じて討つべきであり、北を破って南北を一つにすれば漢にとって永く北辺の憂いがなくなると上言した。
  • 耿秉はこれに賛成し、自ら出征して報恩したいと願い出た。
  • しかし尚書宋意は、北匈奴を南匈奴に併せれば鮮卑の利害が損なわれ、かえって辺患を招くと論じ、さらに北匈奴が西へ退いて和親を求めている今は、これを外藩として利用するのが上策で、南部の要請に従って出兵するのは危険だとした。

秋 都郷侯暢暗殺事件

  • 齊殤王の子、都郷侯暢が国喪を弔うため来朝した。
  • 竇憲は、暢が太后に近づいて宮中権力を分けることを恐れ、刺客に命じて屯衛の中で暢を殺害させ、その罪を弟の利侯剛に着せようとした。
  • 侍御史と青州刺史に混成調査をさせたが、尚書韓稜は、賊は京師で起きたのだから遠方へ責任を転嫁してはならないと強く反対した。
  • 何敞もまた宋由を説得し、自分一人でも捜査すべきだと主張したため、二府の役人も同行し、ついに事件の実情が明らかになった。
  • 太后は怒って竇憲を内宮に閉じ込めた。竇憲は処罰を恐れ、罪を償うため自ら匈奴征討を願い出た。

冬十月 竇憲の北伐任命

  • 乙亥、竇憲は車騎将軍となり、北匈奴討伐を命じられた。副将は執金吾耿秉。
  • 北軍五校・黎陽営・雍営・辺境十二郡の騎兵、さらに羌胡の兵が徴発され、出塞することとなった。
  • また、公卿の推挙により、故張掖太守鄧訓が張紆に代わって護羌校尉となった。

冬 鄧訓、恩信で羌を鎮める

  • 迷唐は一万騎を率いて塞下に来たが、すぐには攻めなかった。鄧訓は、まず小月氏胡を保護して羌と戦わせない方針を採った。
  • 論者は「羌と胡が戦えば官に有利」と言ったが、鄧訓は張紆の失信で羌が大きく動揺した今こそ恩信で懐柔すべきだとし、城門や居所の園門まで開いて、諸胡の妻子を中へ収容し厳重に守った。
  • 羌は略奪の成果を得られず、胡を攻めることもできないまま引き下がった。
  • 湟中の諸胡は、漢はいつも自分たちを争わせようとしてきたが、鄧訓だけは父母のように守ってくれたと感激し、訓に従うようになった。
  • 鄧訓はさらに諸羌へ賞賜を配って相互に招誘させ、迷唐の叔父号吾は八百戸を率いて降伏した。
  • 湟中の秦胡・羌兵四千で塞外へ出撃し、写谷で迷唐を破った。迷唐は大小榆谷を去り、頗巖谷に移って部衆も離散した。