春正月 曹褒に礼制整備を命じる
- 皇帝は曹褒を召し、叔孫通の『漢儀』十二篇を与えたうえで、その内容が粗略で経義に合わない部分を礼に照らして正し、実施可能な制度に整えるよう命じた。
春三月 傅育敗死、羌情勢悪化
- 護羌校尉傅育は、新たに降っていた焼当羌を討つことを望みつつも、直接出兵を避け、羌と胡とを争わせようとした。だが失敗して、羌胡は再び塞外へ去り、迷吾のもとに集まった。
- 傅育は諸郡兵数万人の出動を求めたが、合流前に単独進軍した。
- 三兠谷で夜襲を受けて大敗し、傅育以下八百八十人が戦死した。援軍到着前に羌は退いた。
- 朝廷は隴西太守張紆を校尉に任じ、一万人を率いて臨羌に屯させた。
夏六月 三公の交代
- 司徒桓虞が免官となった。
- 司空袁安が司徒に転じ、光禄勲任隗が司空となった。任隗は任光の子である。
秋七月 斉王晃の貶爵
- 斉王晃と弟の利侯剛は、母の太姫と互いに罪を訴え合った。
- 朝廷は斉王晃を蕪湖侯に貶め、剛の食邑を三千戸削り、太姫から璽綬を収めた。
七月 淮陽王の死と鮮卑の勝利
- 淮陽頃王昞が死去した。
- 鮮卑は匈奴左地に侵入して北匈奴を大破し、優留単于を斬って帰還した。
秋から冬 張紆の欺殺と迷唐の蜂起
- 迷吾は再び諸種とともに金城塞を犯した。張紆は従事の司馬防に命じて木乗谷で戦わせ、迷吾は敗れた。
- 迷吾は通訳を介して降伏を願い出たため、張紆はこれを受け入れ、臨羌で兵を並べた大宴を催して迎えた。
- しかし酒に毒を盛り、伏兵を用いて酋豪八百余人を殺し、迷吾の首を傅育の墓に祭ったうえ、残党も討って数千を斬獲した。
- 迷吾の子・迷唐は、諸種と和解・婚姻・人質交換を行って勢力をまとめ、大小榆谷を拠点として再び反抗し、張紆もこれを制しきれなくなった。
改元章和
- 瑞祥が相次いだことを理由に、壬戌の日、元号を章和に改めた。
- 京師や諸方で瑞兆を称える意見が多く出る中、太尉掾何敞だけは、怪鳥や異草はかえって政治への警告かもしれないとして慎重な態度を示した。
秋八月から冬十月 南巡
- 皇帝は南巡し、梁・沛・彭城・寿春・汝陰を歴訪した。沛にいた八月晦日には日食があった。
- 途中、かつて貶められていた阜陵侯延を阜陵王に復封した。
- 十月、宮中に還った。
冬 北匈奴諸部の大規模降附
- 北匈奴で大乱が起こり、屈蘭儲ら五十八部、二十八万人が雲中・五原・朔方・北地に至って降った。
曹褒の礼書完成
- 曹褒は旧典に五経や讖緯の文も加えて、天子から庶人までの冠婚葬祭や吉凶終始の制度、合わせて百五十篇を編纂して奏上した。
- しかし異論が多くて決しがたかったため、皇帝はこれを受理するにとどめ、役所に可否の審議を命じることはしなかった。
西域 班超、莎車を平定
- 班超は于窴などの諸国兵二万五千を率いて莎車を討った。龜兹王は温宿・姑墨・尉頭の兵五万を集めて救援に向かった。
- 班超は兵力差を見て、夜鼓を合図に撤退するよう見せかけ、捕虜の管理もゆるめて偽装した。龜兹王と温宿王はこれに乗じて待ち伏せに出た。
- そのすきに班超は諸軍を集めて急襲し、莎車営を破って五千余級を斬った。莎車は降伏し、龜兹らも退いた。
- 以後、班超の威名は西域に震い、南道支配は大きく進展した。