資治通鑑漢紀三十八 肅宗孝章皇帝上 建初 元年 76年

春正月 飢民救済と政治の方向転換

  • 春正月、兗州・豫州・徐州の飢民に食糧を支給するよう命じた。
  • 旱害をどう鎮めるべきかを問われた司徒の鮑昱は、先年の楚王英事件の連座者に冤罪が多いおそれがあり、流罪となった者を家に帰し、禁錮も解くべきだと進言した。皇帝はこれを受け入れた。
  • 校書郎の楊終は、近年の対匈奴戦、西域経営によって民衆の負担が重く、これが天変を招いたのだとして、征伐と遠方駐屯の縮小を求めた。第五倫も同調した。
  • これに対し、牟融・鮑昱らは、匈奴討伐と西域経営は先帝の定めた事業であり、軽々しく改めるべきでないと主張した。
  • 楊終はさらに、民を害する事業なら先例を改めるべきだと再度論じ、皇帝は最終的にその意見を採用した。

刑政の緩和

  • 丙寅、郡守・太守級の官に対し、農桑の奨励、死罪に当たらぬ事件の拙速処断停止、慎重な人材登用、冤獄の是正を命じた。
  • 永平年間以来、官吏の政治は厳酷に流れ、尚書の裁決も重罰寄りであった。
  • 尚書の陳寵は、刑罰は濫用よりもやや軽きに失するほうがよく、今は寛政へ移るべきだと上奏した。拷問や法律運用の苛烈さを改めるよう求め、皇帝は深くこれを容れて、以後おおむね寛厚を旨とした。

西域・車師方面の戦いと耿恭の帰還

  • 酒泉太守の段彭らは柳中に集結して車師を攻め、交河城を落とし、多数を討ち取り捕虜とした。北匈奴は驚いて退き、車師は再び漢に降った。
  • 関寵がすでに死去していたため、謁者の王蒙らは撤兵しようとしたが、耿恭の軍吏であった范羌が救出を強く求めた。
  • そこで二千の兵を分けて范羌に与え、山北から耿恭を迎えさせた。大雪を踏み分けて城に達すると、籠城中の耿恭らは初め敵襲と誤認したが、范羌の呼びかけで漢軍と知り、城中は歓声と涙に包まれた。
  • 翌日、耿恭らは撤退を開始した。匈奴の追撃を受けながら進み、飢えと疲労で道中さらに人員を失い、三月に玉門関へ至った時には十三人しか残っていなかった。
  • 中郎将の鄭衆は耿恭らを手厚く遇し、その忠勇を奏上した。耿恭は洛陽に到着すると騎都尉に任じられた。
  • あわせて戊己校尉・西域都護の官をすべて廃止し、班超にも帰還命令が出された。

班超の踏みとどまり

  • 班超が疏勒を去ろうとすると、疏勒の人々は漢の使者に見放されれば龜兹に滅ぼされると恐れ、都尉の黎弇は自刎してまで引き留めようとした。
  • 于窴でも王侯以下が泣いて別れを拒み、班超自身も志を捨てきれず、引き返して疏勒に戻った。
  • この間に疏勒の二城は龜兹に降り、尉頭と連合していたため、班超は反乱者を捕えて斬り、尉頭を破って六百余人を殺し、疏勒を再び安定させた。

東平王蒼の進言

  • 甲寅、山陽・東平で地震が起きた。
  • 東平王蒼は施政について三事を上申し、皇帝はその見識を高く評価して採用の意向を示し、特に銭五百万を賜った。
  • その後、皇帝が原陵・顕節陵のために陵邑を設けようとすると、蒼は、秦以来の陵邑設置は民力を損なうものであり、光武帝・明帝の節倹の志にも反すると諫めた。皇帝はこれを聞き入れて中止した。
  • 以後、朝廷で難しい政務があるたび、急使を送って東平王蒼に諮問し、その答申は多く採用された。

秋八月以後 永昌・阜陵・北匈奴

  • 秋八月庚寅、天市に彗星が現れた。
  • 益州西部都尉から昇格してできた永昌郡では、先に鄭純が清廉な統治で夷人の帰附を招いていたが、後任者がこれを継げず、九月、哀牢王の類牢が太守・県令を殺して反乱し、博南を攻めた。
  • 阜陵王延は以前から怨望を抱いており、子の魴とともに謀反を企てたとの告発があった。皇帝は死罪にはせず、冬十一月、阜陵侯に降して一県のみを食ませ、吏民との交渉を禁じた。
  • 北匈奴の皋林温禺犢王が涿邪山南に戻ってくると、南単于は辺郡兵・烏桓と協力してこれを破った。
  • この年、南匈奴の地域で大飢饉が起こり、救済が行われた。