資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 十八年 75年

春:西域前線の危機

  • 二月、詔により竇固らの主力は兵を収めて京師へ帰った。
  • すると北単于は左鹿蠡王に二万騎を与えて車師を攻めさせた。
  • 耿恭は司馬に兵三百を与えて救援させたが、全滅した。
  • 匈奴はついに車師後王安得を破って殺し、さらに金蒲城の耿恭を攻めた。
  • 耿恭は毒薬を塗った矢を使い、「漢家の神箭であり、当たればただでは済まぬ」と言い放った。実際に矢を受けた者の傷が沸き立つのを見て、匈奴は大いに驚いた。
  • そこへ暴風雨が起きたため、耿恭は雨に乗じて攻撃し、多くを殺傷した。匈奴は漢兵を神のように恐れていったん退いた。

夏秋:耿恭の疏勒城籠城

  • 六月己未、太微に彗星が現れた。
  • 耿恭は疏勒城のそばに谷水があって守りに適するとみて、そこへ兵を移した。
  • 秋七月、匈奴が再び来攻し、谷水をせき止めた。
  • 城中では深さ十五丈まで井戸を掘っても水が出ず、兵士たちは渇きのあまり馬糞の汁をしぼって飲んだ。
  • 耿恭みずから土運びを率いると、やがて泉が湧き出た。兵士たちは万歳を唱え、水を高く汲み上げて城外に見せつけた。
  • 匈奴はこれを神異と思い、意表を突かれて引き上げた。

秋:明帝崩御

  • 八月壬子、帝は東宮前殿で崩じた。年四十八。
  • 遺詔で寝廟を新造せず、神主は光烈皇后の更衣別室に納めるよう命じた。

明帝の遺風

  • 明帝は建武以来の制度を尊重してほとんど変更せず、后妃の実家には侯封を許さず、政治への関与も認めなかった。
  • 館陶公主が子のために郎官の任命を求めたときも許さず、代わりに銭一千万を賜った。
  • 群臣に対しては、郎官一人でも天上の列宿に応じ、地方へ出れば百里の命運を握るのだから、人選は難しいのだと語った。
  • また、公車が反支の日には章奏を受けない慣行があると知ると、農桑を廃して遠く都へ来る民を禁忌で足止めするのは政治の本意ではないとして、これを廃した。
  • 尚書閻章の妹二人が貴人であったが、閻章が旧典に通じ昇進目前であっても、後宮の親族だからといって重職に取り立てなかった。
  • そのため官吏は職を得やすく、人民もその業に安んじ、遠近ともに畏服し、戸口は増加した。

章帝即位と馬氏外戚

  • 太子が即位した。年十八。皇后は皇太后と尊ばれた。
  • 明帝崩御の直後、馬氏の兄弟たちは争って宮中へ入ろうとしたが、北宮衛士令楊仁が甲冑を着け戟を持って門衛を厳しく統制したため、誰も軽々しく入ることができなかった。
  • 馬氏はそろって楊仁を章帝に讒言し、峻厳で苛刻だと訴えたが、帝はその忠誠を知っていよいよ善くし、什邡令に任じた。

冬:葬礼・大赦・録尚書事

  • 壬戌、孝明皇帝を顕節陵に葬った。
  • 十月丁未、天下に大赦を行った。
  • 詔して、太尉事を行っていた節郷侯趙熹を太傅とし、司空牟融を太尉として、いずれも録尚書事を兼ねさせた。
  • 「録尚書事」は、三公が台閣の政務を直接総覧する形で、後世に重んじられる職掌の始まりと位置づけられる。胡注は、その淵源を西漢以来の「領尚書事」に求めて詳述している。

十一月:第五倫の司空就任

  • 十一月戊戌、蜀郡太守第五倫が司空となった。
  • 第五倫は蜀郡で公正清廉にして人材登用にすぐれていたため、帝は遠方の郡守からこれを抜擢した。

西域都護陳睦の戦死と耿恭・関寵の孤立

  • 焉耆と龜兹が都護陳睦を攻めて殺し、北匈奴は関寵を柳中城に包囲した。
  • ちょうど中国では大喪があって救援が届かず、車師もまた叛いて匈奴とともに耿恭を攻めた。
  • 耿恭は兵を励まして数か月守り抜いたが、食糧は尽き、鎧や弩の筋革を煮て食うほどとなった。
  • それでも耿恭が士卒と死生をともにし、真心で結んでいたため、皆に二心はなかった。ただし次第に死亡者は増え、ついには数十人しか残らなかった。
  • 単于は耿恭が困窮したと知り、降れば白屋王に封じ、女子を妻として与えると誘った。
  • 耿恭は使者をおびき寄せて城上に引き上げ、自ら打ち殺して、その肉を炙って城上に示した。単于は怒って包囲兵を増したが、落とすことはできなかった。

朝議と救援決定

  • 関寵が救援を求めて上書すると、公卿会議では司空第五倫が、救うべきではないと主張した。
  • これに対し司徒鮑昱は、危地へ送りながら急となれば見捨てるのでは外に夷狄の暴を放置し、内に死難の臣を傷つけることになる、もし今後また匈奴が犯塞した時、誰が命を懸けて出征するのかと論じた。
  • しかも両部とも兵は数十人にすぎず、匈奴が長く囲んでも落とせないのは、彼らが弱兵ながら力を尽くしている証拠だとした。
  • そのうえで敦煌・酒泉の太守に精騎二千ずつを率いさせ、旗幟を多くして倍速行軍させれば、匈奴の疲れた兵は必ず対抗できず、四十日で塞内へ帰還できると説いた。
  • 帝はこれを是とし、征西将軍耿秉を酒泉に屯させて太守事を行わせたうえで、酒泉太守段彭と謁者王蒙・皇甫援に命じ、張掖・酒泉・敦煌三郡および鄯善の兵あわせて七千余人を発して救援に向かわせた。

日食と馬氏外戚への諫言

  • 甲辰の晦日に日食があった。
  • 皇太后の兄弟である虎賁中郎将馬廖・黄門郎馬防・越騎校尉馬光は、明帝の一代を通じて官職が変わらなかったが、この時、帝は馬廖を衛尉、馬防を中郎将、馬光を越騎校尉に進めた。
  • 馬廖らは身を低くして冠蓋の士と交わり、士人たちは争ってそのもとへ赴いた。
  • これに対して第五倫は上疏し、『洪範』の「臣は威福を作してはならない」を引き、光烈皇后は陰氏に権勢を貸さず、その後の梁氏・竇氏の非法は明帝が多く誅したため、洛陽から権戚の請託はほぼ絶えたのだと述べた。
  • ところが今また馬氏が話題となり、衛尉馬廖は布三千匹、城門校尉馬防は銭三百万を三輔の衣冠に私的に配り、知る者にも知らぬ者にも与え、臘日にも在洛者へ一人五千銭ずつ贈っている、馬光も羊三百頭、米四百斛、肉五千斤を用いていると指摘した。
  • こうした振る舞いは経義にかなわず、陛下がこれを厚遇するならこそ、むしろ安全に保つ道を考えるべきだ、自分の進言は上は陛下に忠、下は后家を全うするためだと訴えた。

旱魃

  • この年、京師および兗州・豫州・徐州で大旱が起こった。