資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 十七年 74年

春:原陵参拝と甘露

  • 正月、帝は原陵に詣でようとした前夜、先帝と太后が生前の姿のまま現れる夢を見た。目覚めた後も悲しみで眠れず、暦を調べて吉日と知ると、翌朝ただちに百官を率いて上陵した。
  • その日、陵の樹に甘露が降り、帝は百官にこれを採らせて祭に供えさせた。
  • 祭礼後、帝は座から進み出て御床に伏し、太后の鏡匣の中の品々を見て感動し、脂粉や装具を取り替えるよう命じた。左右の者は皆泣いて顔を上げられなかった。

北海敬王睦の死

  • 北海敬王睦が死去した。
  • 睦は若いころから学問を好み、光武帝も明帝もこれを愛した。
  • かつて京師への朝賀に中大夫を遣わす際、もし朝廷から寡人のことを問われたら、忠孝仁慈・賢を敬い士を愛すると答えるつもりだという使者に対し、それでは自分を危うくすると言い、自分は襲封後、志は衰え、声色と犬馬を楽しんでいると答えよと命じた。
  • こうした慎み深さは、藩王に対する法禁が厳しい時代ゆえのものでもあった。

三公交代

  • 二月乙巳、司徒王敏が死去した。
  • 三月癸丑、汝南太守鮑昱が司徒となった。鮑昱は鮑永の子である。

益州方面の遠夷帰附

  • 益州刺史の朱輔は、漢の徳を宣示し、遠方の夷を慰撫した。
  • 汶山以西では、前代にも到達せず、王朝の暦法も及ばなかった白狼・槃木など百余国が、種族を挙げて臣属し、貢ぎ物を奉った。
  • 白狼王唐菆は漢徳をたたえる詩三章を作り、犍為郡掾の由恭がその言葉を通訳して朝廷へ献上した。

西域:班超の疏勒経略

  • 以前、龜兹王建は匈奴によって立てられ、その威勢を頼んで北道を支配し、疏勒王を殺して家臣の兠題を疏勒王に立てていた。
  • 班超は間道から疏勒に至り、まず吏の田慮を派遣して降伏を勧めた。
  • 班超は、兠題は疏勒の本来の王統ではないので国人は従わないだろう、もしすぐ降らなければ捕らえよと命じていた。
  • 田慮が到着すると、兠題は田慮を軽んじて降る気を見せなかったため、田慮は不意をついてこれを縛り上げた。左右は驚いて逃げた。
  • 班超はすぐ駆けつけて疏勒の将吏を集め、龜兹の無道を説き、旧王の兄の子忠を立てて王とした。
  • 国人は大いに喜んだ。
  • 班超は兠題を殺すべきか、生かして送るべきかを問うたが、皆は殺すべきだと言った。
  • 班超は、殺しても益がない、龜兹に漢の威徳を知らせるべきだとして、兠題を解いて送り返した。

夏五月:群臣の上寿

  • 五月戊子、公卿百官は、帝の威徳が遠人を懐かせ、祥物が朝堂に集まったとして、杯を奉じて長寿を祝った。
  • 帝は、神物は王者に応じて生ずるが、これは高祖と光武帝の聖徳の余沢であって、自分が辞退すべきものではないとして受けた。
  • そして太常に吉日を選ばせ、宗廟に策書で報告し、民に爵位や粟を分け与えた。

冬:西域再征と車師平定

  • 十一月、奉車都尉竇固・駙馬都尉耿秉・騎都尉劉張が敦煌の昆侖塞から出て、西域を討った。
  • 耿秉と劉張は符伝を竇固に返上してその指揮下に入った。
  • 軍勢は一万四千騎、白山の匈奴を蒲類海で破り、そのまま車師に進撃した。
  • 車師前王と後王の王廷は五百余里離れていた。竇固は遠い後王ではなく先に前王を攻めようと考えたが、耿秉は、まず遠方の後王を突いて根本を押さえれば前王も自ら服すと主張した。
  • 竇固が決しきれぬうちに、耿秉は奮然として馬に乗り兵を率いて北へ入り、他軍もやむなくこれに続いた。
  • 後王安得は震え上がって門外に出迎え、馬の脚にすがって降伏した。耿秉は彼を竇固のもとへ送った。
  • 前王もまた命を奉じて帰順し、車師は平定された。
  • 竇固は帰還後、西域都護と戊己校尉の再設置を奏請し、陳睦を都護、司馬耿恭を戊校尉として後王部の金蒲城に、謁者関寵を己校尉として前王部の柳中城に駐屯させた。