資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 十六年 73年
春:四道出兵
- 二月、祭肜と度遼将軍事の呉棠は、河東・西河の羌胡と南単于兵あわせて一万一千騎を率い、高闕塞から出撃した。
- 竇固・耿忠は、酒泉・敦煌・張掖の甲卒と盧水の羌胡一万二千騎を率いて酒泉塞から進んだ。
- 耿秉・秦彭は、武威・隴西・天水の募兵および羌胡一万騎で張掖の居延塞から出た。
- 騎都尉来苗と護烏桓校尉文穆は、太原・雁門・代郡・上谷・漁陽・右北平・定襄の兵と烏桓・鮮卑一万一千騎を率いて平城塞から出た。
- こうして四方面から北匈奴を討った。
竇固の戦功と伊吾の確保
- 竇固・耿忠は天山に至って呼衍王を撃ち、千余級を斬り、さらに蒲類海まで追撃した。
- 伊吾盧地を奪って宜禾都尉を置き、吏士を留めて伊吾盧城で屯田させた。
耿秉・来苗らの行動
- 耿秉・秦彭は匈林王を撃ち、沙漠を六百余里越えて三木楼山まで進んで帰還した。
- 来苗・文穆は匈河水まで至ったが、敵はみな逃げ去っており、戦果はなかった。
祭肜・呉棠の失敗と祭肜の最期
- 祭肜は南匈奴左賢王信と不和であったまま高闕塞を出て九百余里進み、小山に至ると、信はこれを涿邪山だと偽って言い立てたため、敵を見ぬまま引き返した。
- 祭肜と呉棠は、逗留・怯懦の罪で下獄され免官となった。
- 祭肜は自らの無功を恥じ、出獄後まもなく吐血して死んだ。臨終には、国家の厚恩を受けながら使いを果たせなかったのが悔しい、死後は自分の受けた賞賜を帳簿にしてすべて上納し、子は兵営に身を投じて先頭で戦い、自分の志を果たしてくれと言い残した。
- 子の祭逢がこれを奏上すると、帝は祭肜をもとより重んじていたので深く驚き嘆いた。
- 烏桓や鮮卑は京師に朝賀する際、祭肜の墓を必ず拝し、仰いで泣いた。遼東の吏民も祠を建て、四時に祭った。
班超の鄯善攻略
- 竇固は独り大きな戦功を挙げ、特進を加えられた。
- 竇固は、仮司馬班超を従事郭恂とともに西域へ派遣した。
- 班超が鄯善に至ると、最初は王広がきわめて丁重にもてなしたが、まもなく態度が急に冷淡になった。
- 班超は、北匈奴の使者が来て王がどちらにつくか迷っていると見抜き、侍従の胡人を詐してその所在を聞き出したうえで閉じ込めた。
- そして三十六人の部下を集め、絶域にあって敵使に捕らえられれば骨も残らぬ、今夜の火攻めこそ活路だと鼓舞した。
- 夜半、大風に乗じて敵営を襲い、火を放ち、鼓を鳴らして喊声を上げた。班超自ら三人を斬り、部下は使者以下三十余級を斬首し、残る百人あまりは焼き殺した。
- 翌日、郭恂に報告すると、郭恂は驚きつつも功を分かたれぬことに動揺を見せたが、班超は、行かなかったからといって自分が独占するつもりはないと告げて安心させた。
- その後、鄯善王広を招いて匈奴使の首を見せ、以後北虜と通じないよう警告すると、国中は震え上がり、王は子を人質に出して漢に帰属を誓った。
- 班超が戻って竇固に報告すると、竇固は喜んでその功を上奏し、さらに西域へ使者を増派したいと願い出た。帝は「班超のような吏がいるのに、なぜ他を選ぶのか」と言って、班超を軍司馬とし、引き続き西域経略に当たらせた。
于寘の帰順
- 竇固は再び班超を于寘へ遣わした。班超は、人数を増やしても益はなく、危急の時にはかえって足手まといになるとして、引き続き三十六人だけを率いて行った。
- 当時、于寘王広徳は南道に威勢を張り、匈奴の使者もその国を監督していた。
- 班超が到着すると、広徳の礼はそっけなく、その国では巫覡の言葉が重んじられていた。
- 巫は神が怒っている、漢使の騧馬を取って祠るべきだと語り、国相私来比がひそかに班超へ馬を求めてきた。
- 班超は事情を見抜いて承知し、巫本人に取りに来させたうえで、その場で首を斬り、私来比を数百回も鞭打って首を広徳へ送った。
- さらに広徳を責めると、鄯善で匈奴使を誅した班超のことを聞いていた広徳は大いに恐れ、みずから匈奴使者を殺して降った。
- 班超は王以下に厚く賜り、よく慰撫した。
- これにより諸国はみな子を送り込んで入侍し、西域は漢と断絶して久しかったが、ここに再び通じるようになった。
淮陽王延の事件
- 淮陽王延は驕奢で、臣下に対しては厳酷であった。
- 上書によって、姫の兄の謝弇、姉婿の韓光らとともに奸猾の徒を招き、図讖や祠祭・呪詛を行っていると告発され、事件は取り調べられた。
- 五月癸丑、謝弇・韓光および司徒邢穆が連座して死罪となり、関係者も多く死罪・流罪に処せられた。
- 戊午の晦日に日食があった。
- 六月、大司農の王敏が司徒となった。
- 有司は淮陽王延の誅殺を請うたが、帝は延の罪は楚王英ほどではないとして、秋七月、延を阜陵王へ移し、二県を食ませるにとどめた。
雲中の廉范
- この年、北匈奴が大挙して雲中へ侵入した。
- 雲中太守廉范は、兵が少ないので隣郡へ救援を求めるべきだという意見を退けた。
- 日暮れになると、兵士に二本の炬を十字に結ばせ、三方に火をともして営中に星のように並べ、援軍が到着したかのように見せた。
- 匈奴は漢軍が多いと誤認して驚き、夜明けに退こうとしたところを、廉范は兵に早朝の食をとらせて急襲し、数百級を斬った。敵は互いに踏みあって千余人が死に、それ以後、雲中へ近づかなくなった。
- 廉范は廉丹の孫である。