資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 十五年 72年
春:東巡と孔子宅への幸
- 二月庚子、帝は東巡に出て、癸亥に下邳で親耕した。
- 三月、魯に至って孔子の旧宅へ行幸し、自ら講堂に入り、皇太子や諸王に経書を講じさせた。
- さらに東平や大梁にも赴いた。
夏:皇子の封建
- 四月庚子、宮へ帰った。
- 皇子恭を鉅鹿王、党を楽成王、衍を下邳王、暢を汝南王、昞を常山王、長を済陰王に封じた。
- 帝は自ら封域を定め、楚や淮陽の半分程度に抑えた。
- 馬后が、諸子に数県だけとは制度上やや倹しすぎるのではないかと問うと、帝は、自分の子が先帝の子と同等であるべきではなく、年ごとに二千万も与えれば十分だと答えた。
- 乙巳、天下に大赦を行った。
匈奴討伐の議
- 謁者僕射耿秉は、たびたび匈奴討伐を請願した。
- 帝は、顕親侯竇固が河西事情に詳しいことから、耿秉・竇固・太僕祭肜・虎賁中郎将馬廖・下博侯劉張・好畤侯耿忠らに共同で方策を議させた。
- 耿秉は、漢武帝が河西四郡と居延・朔方を得て以後、匈奴は肥沃な牧地を失い、西域も一度は内属したので呼韓邪単于が帰附した、今も南単于がいる点では情勢が似ているが、西域がまだ帰服していないため、まず白山を撃ち伊吾を取り、車師を破って烏孫などと通じ、匈奴の右腕を断つべきだと説いた。
- さらに、伊吾にいる匈奴の呼衍部を破れば左角も折れるので、その後なら匈奴本体を撃てると主張した。
- 帝はこの意見をよしとしたが、他の議者には、白山に出兵すれば匈奴は逆に兵を合わせ、こちらは東方にも兵を分けねばならず兵力が散るとする者もいた。
- 帝は最終的にこの計画を採用し、十二月、耿秉を駙馬都尉、竇固を奉車都尉とし、騎都尉秦彭を耿秉の副将、耿忠を竇固の副将として、いずれも従事司馬を置き、涼州へ出屯させた。