資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 十四年 71年
春夏:虞延の自殺と邢穆の任命
- 三月、虞延は責任を感じて自殺した。
- その後しばらく太常周沢が司徒事を代行し、四月には鉅鹿太守の邢穆が司徒に任じられた。
楚王英の死と燕広への封侯
- 楚王英は丹陽に到着して自殺した。
- 詔により諸侯の礼で涇県に葬られ、告発者の燕広は折姦侯に封じられた。
楚獄の拡大
- このころ楚王事件の追及は長年に及び、供述のつながりから京師の親戚、諸侯、州郡の豪傑、さらには取調官で迎合した者にまで及び、死刑・流罪になった者は数千にのぼり、なお獄中には数千人が残った。
- 樊鯈の弟の樊鮪はかつて自分の子のために楚王英の娘を求めたが、鯈は、建武中に樊氏は一門五侯の栄誉を受けたが、それほどの盛寵は禍のもととなるので避けたのだ、まして楚家に子を委ねるべきではないと制止した。
- 鮪は従わなかったが、楚事が発覚した時には鯈はすでに死んでいた。帝はその慎み深さを思い出し、鯈の子らは連座を免れた。
尹興らの拷問
- 楚王英は天下の名士を密かに書き留めており、その中に呉郡太守尹興の名があった。
- そこで尹興以下掾史五百余人が廷尉へ召され、取り調べを受けた。
- 多くの者は拷問に耐えられず、半数以上が死んだ。
- ただし門下掾陸続、主簿梁宏、功曹史駟勲らは、あらゆる重刑を受けても供述を変えなかった。
- 陸続の母が呉から洛陽へ来て食物を届けたとき、彼は拷問中でも顔色を変えずにいたが、食事を前にしてだけは悲しみ泣いた。尋ねられると、母の切る肉はいつも四角く、葱も寸ごとに切るから、見れば母の手になるものと分かったためだと答えた。
- 使者がそのことを上奏すると、帝は尹興らを赦し、終身の禁錮とした。
名臣たちへの嫌疑
- 顔忠・王平は、隧郷侯耿建、朗陵侯臧信、濩沢侯鄧鯉、曲成侯劉建らを引き込もうとしたと供述した。
- だが彼らは、忠・平と会ったことすらないと主張した。
- 帝の怒りが激しかったため、役人たちは誰も情状を酌まず、関係者を一律に罪へ落とし込んだ。
寒朗の直言
- 侍御史寒朗は冤罪の多さを痛み、耿建らの人相・形状を試しに顔忠と王平へ尋ねたところ、二人は答えに窮した。そこで寒朗は、彼らの供述は偽りであり、多くの無辜が巻き込まれていると上言した。
- 帝が、もしそうなら忠・平はなぜそんな供述をしたのかと問うと、寒朗は、自分たちの不道の罪を軽く見せようとして虚偽の連坐を広げたのだと答えた。
- 帝は激怒して寒朗を引き下がらせ、杖で打とうとしたが、寒朗は死を賭して一言を願い、取調べの場では「出すより入れるほうが無難」と皆が考え、十から百へと連座が拡大している実情を述べた。
- また、公卿たちも朝会では九族に及ばぬのは大恩だと言いながら、家に帰れば冤罪の多さを嘆いていると指摘した。
- 帝はしだいに気持ちを解き、寒朗を退出させた。
洛陽獄の録囚と馬后の諫め
- 二日後、帝は自ら洛陽の獄を巡って囚徒を調べ、千人余を釈放した。すると日照りの最中に大雨が降った。
- 馬后もまた、楚獄には濫刑が多いと機会を見て帝に進言した。
- 帝は深く感じ入り、夜中に立って思い悩み、それ以後、多くの赦免を行った。
袁安の処置
- 任城令の袁安が楚郡太守へ転任すると、役所へ入る前にまず楚王英の獄を調べ、確かな証拠のない者を整理して上奏した。
- 府丞や掾史は、反逆者に阿附した者を放免すれば同罪になると争って反対したが、袁安は、もし法に合わなければ自分一人が責任を負うといって押し切った。
- 帝はこれに感じ、袁安の請いを許して四百余家を出獄させた。
五月:恩典と寿陵の制度
- 五月、故広陵王荆の子元寿を広陵侯に封じ、六県を食ませた。
- また竇融の孫の竇嘉を安豊侯に封じた。
- さらに帝は、自らの寿陵について、流水葬に近い簡素な方式を命じ、塚を高く築かず、百年後は地を掃って祭るだけとし、供物も盂の水・乾肉・乾飯程度にとどめた。
- 百日を過ぎた後は四時の奠だけとし、少数の吏卒に洒掃をさせるのみとし、もし勝手に造営を論ずる者があれば、宗廟を私議した罪で処断するとした。