資治通鑑漢紀三十七 顯宗孝明皇帝 永平 四年 61年
春:帝の近出と東平王蒼の諫言
- 帝は洛陽城内の邸宅群を見て回り、そのまま河内で狩猟を行おうとした。これに対し東平王蒼が上書して諫めたため、帝はその奏を読んでただちに宮中へ戻った。
秋冬:千乗国の廃絶と三公の交代
- 九月、千乗哀王建が死去した。子がなかったため、千乗国は廃された。
- 十月、司徒郭丹・司空馮魴が罷免され、河南尹の范遷が司徒、太僕の伏恭が司空となった。伏恭は伏湛の一族である。
梁松の獄死と鄭衆の節義
- 陵郷侯梁松は、不満を抱いて誹謗文書を飛ばした罪により下獄され、獄中で死んだ。
- かつて帝が太子であった頃、鄭興の子の鄭衆は経学で名を知られていた。太子や山陽王荆が梁松を介して贈り物をして招こうとしたが、鄭衆は、太子や諸侯王が私的に賓客と交わるのは旧制に反するとして応じなかった。
- 梁松が失脚すると、その交友関係にあった者の多くは連座したが、鄭衆だけは最初から関与を拒んでいたため、罪に染まなかった。
西域:于寘と莎車の争い
- 于寘王広徳は諸国の兵三万人を率いて莎車を攻め、莎車王賢を誘い出して殺し、その国を併合した。
- これに対して匈奴は諸国兵を発して于寘を包囲した。広徳はいったん降り、匈奴は賢の人質の子であった不居徴を莎車王に立てた。
- しかし広徳は再び攻めて不居徴を殺し、その弟の斉黎を新たな莎車王に立てた。
東平王蒼の帰国願い
- 東平王蒼は、至近の皇族として政務を助け、声望が日増しに重くなっていたため、かえって身の不安を覚えた。
- そこで繰り返し、漢の旧例では宗室子弟が公卿に居続けないことを理由に、驃騎将軍の印綬を返して藩国へ退くことを願い出た。
- その願いはきわめて切実で、帝はついに帰国を許したが、将軍の印綬だけは返上させなかった。