春二月 三公交替と皇后・太子冊立
- 春二月甲寅、太尉趙熹と司徒李訢が免官となった。
- 丙辰、左馮翊郭丹が司徒、己未、南陽太守虞延が太尉となった。
- 甲子、貴人馬氏を皇后に立て、皇子炟を太子とした。
馬皇后の徳
- 馬皇后は馬援の娘で、光武の時に選ばれて太子宮に入り、陰后によく仕え、同列にも礼を尽くして上下を安んじたため、特に寵愛された。
- 明帝即位後に貴人となったが、前妻の姉の娘である賈氏も同時に選ばれており、その子炟を、子のない馬氏に養わせた。帝は、自分で生まなくとも、愛育が足りさえすればよいと言った。
- 皇后はわが子以上に心を尽くして養い、太子もまた孝順で、母子の慈愛は終始わずかな隔てもなかった。
- 皇后はつねに皇統の子が少ないのを案じ、後宮の女性を積極的に帝に推薦し、進見した者をねんごろに慰めた。帝が特に寵する者には、さらに厚遇を加えた。
- 有司が長秋宮の立后を奏しても、帝がまだ答えないうちに、皇太后が「馬貴人こそ後宮第一の徳」と言って推した。
- 皇后となってからも一層謙虚で、読書を好み、粗布の衣と縁取りのない裙を常とした。朔望に姫主たちが朝請すると、その衣を綺羅と思って近づいて見れば、実際は染めに向いた素布だったという。
- 群臣の奏事で難しい案件があると、帝はしばしば皇后に試みに問うたが、皇后は筋道立ててほぐし、それぞれの事情にかなう裁きを示した。
- それでも家の私事で政治に干渉することはなく、帝の敬愛は終始衰えなかった。
雲台功臣の図像
- 帝は中興の功臣を追想し、南宮雲台に二十八将の図像を描かせた。鄧禹を第一とし、馬成・呉漢・王梁・賈復ら諸将を列し、さらに王常・李通・竇融・卓茂を加えて、計三十二人とした。
- ただし馬援は椒房の親でありながら、そこには加えられなかった。
夏四月 諸王の加封
- 夏四月辛酉、皇子の劉建を千乗王、劉羡を広平王に封じた。
六月 彗星と北宮造営への諫言
- 六月丁卯、天船の北に彗星が現れた。
- 帝は大いに北宮を造営しようとしたが、旱魃の最中であったため、尚書僕射鍾離意が免冠して上疏した。
- 鍾離意は、殷の成湯が旱に遭った時、政治の節度・民苦・宮室・女謁・賄賂・讒人の六事を自責した故事を引き、古来、宮室が狭いことよりも民が安んじないことこそ問題だと論じた。
- 北宮工事のため民が農時を失っているから、ひとまず中止して天意に応ずべきだと勧めた。
- 帝は策詔をもって、成湯の六事の責めは自分一人にあると答え、鍾離意には冠履を謝る必要はないと慰めたうえで、大匠に命じて宮室工事を止め、不急のものを減省させた。
- さらに公卿百僚に向けても詔を出して自ら謝したため、やがて恵みの雨が降った。
劉平の推挙と鍾離意の諫諍
- 鍾離意は全椒長の劉平を推挙し、詔で召して議郎にした。劉平は全椒で恩恵ある政治を行い、民は自発的に納税や徭役を調整し、巡察に来る刺史や太守も、囚人がなく民が安んじているので、ほとんど問うことがなかった。
- このころ帝は事細かく見抜くことを好み、密事を暴くのを明察と考え、大臣がしばしば詆毁され、近臣や尚書以下が引きずり出されることさえあった。
- 郎の薬崧を杖で打とうとした時、薬崧は床下に逃げ込み、「天子は穆穆、諸侯は皇皇とある。人君が自ら立って郎を打つとは聞かない」と言い、帝はこれを赦した。
- 朝廷はみな震え、少しでも責めを避けようとして言行を硬くしたが、鍾離意だけはあえて諫争し、たびたび詔書を封還し、臣下の過失も救い解いた。
- 連続する災異に際しては、帝が鬼神を敬い民を憂えるのに天気がなお和せず寒暑が失調するのは、群臣が教化を宣べず、苛刻をならわしとし、人心の和を失っているからだと上疏した。
- 『鹿鳴』の詩が宴楽を言うのは、人と神の心が和してこそ天気も和すると説き、刑罰を緩め時気を順にして陰陽を調えるよう求めた。帝はすぐには用いなかったが、その至誠を知って厚遇しつづけた。
秋八月 太楽を太予へ改称
- 秋八月戊辰、詔により太楽官を太予と改称した。これは讖文に基づく名称変更であった。
壬申晦 日食と自戒の詔
- 壬申晦、日食があった。
- 帝は、楚の荘王は災いがなくても自戒し、魯の哀公は災厄が大きいのに天譴が下らなかったという故事を引き、今の変異はまだ救えるかもしれないから、有司は職を尽くして自分の無徳を補うようにと詔した。
冬十月 章陵行幸と郭賀の褒賞
- 冬十月甲子、車駕は皇太后を奉じて章陵へ幸した。
- 荆州刺史郭賀は政治に特にすぐれていたので、帝は三公の服である黼黻・冕旒を賜り、巡行の際には車の襜帷を除かせ、百姓にその容服を見せて有徳を顕彰させた。
- 戊辰、章陵から還った。
- この年、京師と郡国で七度もの大水があった。
西域 莎車と于寘の争い
- 莎車王賢は兵威をもって于寘・大宛・媯塞王国を脅し、将を派遣して監守させた。
- 于寘人はその将を殺し、君徳立大人休莫霸を王に立てた。
- 賢は諸国兵数万を率いてこれを討ったが、かえって休莫霸に大敗し、身一つで逃げ帰った。
- 休莫霸は進んで莎車を囲んだが、流れ矢に当たって死んだ。
- 于寘人はその甥の広徳を王に立てた。広徳は弟の仁に賢を攻めさせたが、その父が先に莎車に拘留されていたため、賢は父を返し、娘を嫁がせて和親した。