資治通鑑漢紀 顯宗孝明皇帝上 永平 二年 59年

春正月 明堂宗祀と服制整備

  • 春正月辛未、明堂で光武皇帝を宗祀し、上帝に配した。
  • 帝と公卿・列侯は初めて冠冕と玉佩を着けて祭事に臨んだ。これは後漢における本格的な古礼服制の整備であった。
  • 儀礼の後、霊台に登って雲気を観察し、赦を行った。

三月 辟雍での大射礼

  • 三月、辟雍に臨み、初めて大射礼を行った。

冬十月 辟雍での養老礼

  • 冬十月壬子、帝は辟雍へ幸し、初めて養老礼を行った。
  • 李躬を三老、桓栄を五更とし、三老には都紵の大袍と進賢冠、玉杖を与えた。五更も同様だが杖は持たなかった。
  • 乗輿が辟雍の礼殿に到着すると、安車で三老五更を太学講堂から迎え、天子みずから門屏で出迎えた。
  • 三老は賓階から昇り、五更には三公が礼を供した。帝は自ら肉を割き、醤を持って進食し、酒を奉じ、老人が鯁えたり食がつかえたりしないよう、前後に祝者を置いた。
  • 礼が終わると、桓栄とその弟子を堂上に引き上げ、帝自ら講説し、諸儒は経義を質問した。
  • 冠帯縉紳の者で橋門の外に群がって見聞する者は、数えきれぬほどであった。

桓栄への恩礼

  • 帝は桓栄に関内侯の爵を賜り、三老五更には二千石の俸を終身与え、天下の三老にも酒と肉を賜った。
  • 帝は太子時代に桓栄から『尚書』を学んでおり、即位後も師礼を尽くした。
  • かつて太常府へ幸した際には、桓栄を東面に坐らせ、几杖を設け、百官や門生数百人を会させて、自分で経を執って学んだ。
  • 諸生が辞して難問を発しようとしても、帝は「大師がここにおられる」として謙った。
  • 会が終わると宮中の供具をすべて桓家に賜った。
  • 桓栄が病むたびに使者が見舞い、太官・太医が相次いで出入りした。篤くなると、帝はその家の前で車を降り、経を抱いて入って手を執り、涙を流した。寝具や帳、衣被、刀剣まで賜った。
  • その後、諸侯・将軍・大夫が見舞う時も車に乗ったまま門前まで来ることをはばかるようになった。
  • 桓栄が死ぬと、帝は服を変えて親臨し、葬送し、首山の南に塋地を与えた。
  • 子の桓郁は継封を辞して兄の子に譲ろうとしたが、帝は許さず、桓郁は受けたのち収入をその兄子に分け与えた。帝は桓郁を侍中にした。

中山王焉の就国と外戚への均衡

  • 帝は、中山王焉が郭太后の末子で太后に最も愛されていたため、これまで京師に留めていたが、この年にようやく諸王と同様に国へ赴かせた。
  • ただし虎賁官騎を賜い、京師との往来も許すなど、格別の恩寵を与えた。
  • また陰氏と郭氏への礼遇はつねに均等にし、賞賜もほぼ同じにした。

冬 長安行幸と竇氏への処分

  • 甲子、帝は長安へ行幸した。
  • 十一月甲申、使者を遣わして中牢で蕭何・霍光を祭り、その墓を式した。さらに河東へ進み、癸卯に還宮した。
  • 十二月、護羌校尉竇林が欺罔と蔵匿の罪で下獄し、死んだ。
  • 竇林は竇融の従兄の子で、この頃の竇氏は一公・二侯・三公主・四人の二千石を出し、親戚功臣の中でも比類ない勢いを持っていた。
  • 竇林の誅殺後、帝はしばしば竇融を責めたため、竇融は恐れて致仕を願い出て、自宅で養病するよう命じられた。

五郊迎気・公主殺害・南単于の死

  • この年、初めて五郊で迎気の礼が行われた。春夏秋冬の四郊と中央で、それぞれ青帝・赤帝・黄帝・白帝・黒帝とその配神を祀り、車服や楽舞も方色に応じて整えた。
  • 新陽侯陰就の子・陰豊は酈邑公主を娶っていたが、公主が驕慢で嫉妬深かったため、陰豊はこれを殺し、誅された。父母も自殺した。
  • 南単于の汗が死に、比の子の適が立って醯僮尸逐侯鞮単于となった。