資治通鑑漢紀 顯宗孝明皇帝上 永平 元年 58年

春正月 原陵朝と新たな陵礼

  • 春正月、帝は公卿以下を率いて原陵に朝し、元会の儀に準じて礼を行った。
  • 天子は神座に拝し、その後は東廂に退いて座った。侍衛官はみな神座の後ろに立った。
  • 太官が食を供え、太常が音楽を奏した。郡国の上計吏は順に神座の前へ進み、その郡の穀価と民の疾苦を奏した。以後これが恒例となった。

夏五月 鄧禹の死

  • 夏五月、高密元侯鄧禹が死去した。

東海王彊の死

  • 東海恭王彊が病となると、帝は使者と太医を次々に驛馬で遣わし、その看病は絶えることがなかった。
  • 沛王輔・済南王康・淮陽王延には魯へ行って病を見舞わせた。
  • 戊寅、彊は死去した。臨終の上書では、みずからは夭命で、残された孤弱がさらに皇太后と陛下の憂いになるのが恥ずかしい、子の政は小人物だから自分の封を継がせるのは利益にならないので東海郡を返上したいと願った。
  • また、天下は光武崩御の大憂の後でもあり、皇太后を大切にし諸王にもよろしく伝えてほしい、もう二度と会えないだろうと述べた。
  • 帝はこれを読んで悲しみ、太后とともに津門亭まで出て哭し、大司空に持節して葬儀を護らせた。楚王英・趙王栩・北海王興らと京師の親族にも会葬を命じた。
  • 彊の謙譲と節倹を思い、その意志に背かぬよう、葬送品はできるだけ減らし、衣は遺体を覆うに足るだけ、茅車・瓦器を用い、規定よりも薄くして、その独立した志を明らかにした。
  • 将作大匠には陵廟を造らせた。

秋七月 羌討伐の勝利

  • 秋七月、馬武らが焼当羌を大破し、残余は降って離散した。

山陽王荆の処分

  • 山陽王荆はひそかに星占いのできる者を招いて謀議し、天下に変事が起きることを願っていた。
  • 帝はこれを聞いて荆を広陵王に移封し、その国へ赴かせた。

遼東方面の安定

  • 遼東太守祭肜は偏何に命じて赤山烏桓を討たせ、大破してその首長を斬った。
  • 塞外は震え、武威から玄菟に至るまでみな内附したため、辺境に置いていた屯兵はことごとく罷められた。

東平王蒼の礼楽整備

  • 東平王蒼は、中興以来三十余年四方に大きな憂いがない今こそ礼楽を整えるべきだと考え、公卿とともに南北郊の冠冕・車服制度、および光武廟での登歌・八佾の舞数を定めて奏上した。

耿弇の死

  • 好畤愍侯耿弇が死去した。