資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝下 建武中元 二年 57年
春正月 北郊創設
- 春正月辛未、初めて北郊を立て、后土を祀る制度が定められた。
二月 光武帝崩御
- 二月戊戌、帝は南宮前殿で崩御した。年六十二。
- 帝は毎朝政務を見て、日が傾くまでやめず、しばしば公卿や郎将を召して経義や政理を論じ、夜半になってようやく寝るほど勤勉であった。
- 皇太子は、禹や湯に並ぶ明知を持ちながら、黄老の養生を失っていると諫めたが、帝は自分はこれを楽しんでおり疲れないと答えた。
- 乱世には武功で大業をなし、天下が定まると功臣を退かせて文吏を進め、政体を明らかにし、時勢を量って過失なく施策したため、前漢の基業を恢復し太平を実現したと総括される。
趙熹、喪礼を整える
- 太尉趙熹が喪事を統括した。当時は王莽の乱で旧典が失われ、皇太子と諸王が雑居同席し、藩国の属官まで宮禁に自由に出入りしていた。
- 趙熹は剣を携えて殿上の階で諸王を押し下げ、尊卑を明らかにした。
- さらに謁者に命じて藩国属官を別県に分けて宿泊させ、諸王もそれぞれの邸に帰らせ、朝夕の哭礼の時だけ入内を許した。
- 門衛と礼儀を厳整したため、内外は粛然となった。
皇太子即位と山陽王荆の陰謀
- 皇太子が即位し、皇后を皇太后と尊んだ。
- 山陽王荆は哭礼で悲しまず、ひそかに飛書を作って、蒼頭に郭況の書と偽らせ、東海王彊に送った。
- その内容は、郭后が廃されたのも東海王が無罪で退けられたのも不当であるから、東方へ帰って挙兵し天下を取るべきだ、高祖も亭長から、光武も白水から起こったではないか、と煽るものだった。
- 東海王彊は書を受け取ると恐れ、ただちに使者を捕えて封書のまま奏上した。
- 明帝は荆が同母弟であったため事を秘し、河南宮に移して留め置いた。
三月 原陵への葬送
夏四月 鄧禹・劉蒼の重用
- 夏四月丙辰、詔が出され、今は上に天子たる先帝なく、下に諸侯の方伯もなく、大国を治めるには壮年の自分だけでは思慮が軽くなりがちだとして、賢徳の補佐を求めた。
- そこで高密侯鄧禹を太傅、東平王蒼を驃騎将軍とした。蒼は固辞したが許されなかった。
- また驃騎将軍府には長史・掾史あわせて四十人を置き、その位を三公の上とした。
- 蒼が西曹掾の呉良を推挙すると、帝は、賢者推薦は宰相の職掌であり、蕭何が韓信を挙げたときのように、試験なしで議郎に任ずるべきだとして、そのまま採用した。
羌の反乱再燃
- 先に焼当羌の豪酋滇良が先零を破ってその地を奪い、勢力を伸ばしていた。滇良の死後、その子滇吾が立つと部落はさらに盛んになった。
- 秋、滇吾は弟の滇岸とともに隴西へ侵攻し、允街で太守劉盱を破った。これをきっかけに塞を守る諸羌も反乱した。
- 詔により謁者張鴻が諸郡兵を率いて允吾で戦ったが、漢軍は敗没した。
- 冬十一月、あらためて中郎将竇固が捕虜将軍馬武ら二将軍を監督し、四万人で討伐することとなった。
南単于の交替
- この年、南単于の莫が死に、その弟の汗が立って伊伐於慮鞮単于となった。