資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝下 建武中元 元年 56年
春正月 第五倫の登用
- 春正月、淮陽王が入朝し、第五倫も属官として会見に加わった。
- 帝が政事を問うと、第五倫の受け答えは帝の心にかなった。翌日も特に召し出され、夕方まで語り合った。
- 帝は、第五倫が妻の実家に対してさえ過分な馳走を受けなかったという評判や、かつて吏として婦人を笞打ったという噂の真偽を確かめた。
- 第五倫は、三度娶った妻はいずれも父のない家の娘で、飢乱の世に育ったから、人の家でむやみに食事を受けることはしなかったと率直に答えた。
- 帝は大笑いし、扶夷長に任じようとしたが、赴任前に改めて会稽太守に抜擢した。
- 会稽での政治は清廉で恩恵があり、百姓は彼を慕った。
封禅実施への転換
- 帝は河図会昌符に「赤劉の九会、岱宗に命ず」とあるのを読み、これに心を動かされた。
- 虎賁中郎将梁松らに河・洛の讖緯を調べさせると、九世にして封禅すべきとする文が三十六事あると報告された。
- これを受けて張純らがあらためて封禅を請い、帝はついに許可した。
- 有司に武帝元封年間の先例を調べさせると、方石の壇を重ね、玉牒を金泥で封じるべきだとされた。
- 帝は武帝旧封の石を使いたいと望んだが、梁松らが反対し、結局、五色でなくてもよいから完全な青石を新たに採ることになった。
二月 泰山封禅
- 丁卯、車駕は東巡し、二月己卯に魯を経て泰山へ進んだ。
- 辛卯の明け方、泰山下で天を祭り、南方の群神も従祀した。儀礼は南郊と同様であった。
- 儀式後、天子は輦に乗って登山し、昼過ぎに山上へ着いた。着替えを済ませ、夕方に壇へ上がって北面し、尚書令が玉牒検を奉じ、天子みずから璽で封じた。
- 騶騎二千余が方石を開き、玉牒を納めたのち再び石で覆い、印で封じた。これが済むと、天子は再拝し、群臣は万歳を唱えた。
- 夜半すぎにようやく山下へ戻り、百官は翌朝になってようやく一連の儀を終えた。
三月 梁陰での禅祭
- 甲午、梁陰で地を祭り、高后を配祀し、山川の群神も従わせた。儀礼は元始年間の北郊の先例に倣った。
三月・夏四月 張純の死と改元
- 三月、司空張純が死去した。
- 夏四月、車駕は宮に還り、己卯に大赦を行って改元した。
長安行幸と人事
- 帝は長安へ行幸し、五月乙丑に宮へ還った。
- 六月辛卯、太僕馮魴を司空に任じた。
- 乙未、司徒馮勤が死去した。
甘露・醴泉と帝の抑制
- 京師では醴泉が湧き、さらに水辺には赤草が生じた。郡国からも甘露の報告が相次いだ。
- 群臣は、こうした瑞応を太史に編纂させて後世へ伝えるべきだと奏した。
- しかし帝は聞き入れなかった。自ら徳の足りなさを恥じ、郡国が何かを上奏するたびに抑えて取り上げなかったので、史官もあまり記録できなかった。
- 秋には郡国で蝗害が起こった。
冬十月 李訢の任官と呂后廟の整理
- 冬十月、司隷校尉の李訢を司徒に任じた。
- 甲申、司空に高廟を告祠させ、薄太后の尊号を「高皇后」とし、地祇への配食とした一方、呂太后の廟主は園中へ移し、四時の祭だけを行うことにした。
十一月 日食と明堂・霊台・辟雍
- 十一月甲子晦、日食があった。
- この年、明堂・霊台・辟雍の建設が始められた。
- また図讖が天下に宣布された。
桓譚の讖緯批判
- 帝は赤伏符によって即位した経緯もあり、讖文をよく信用し、疑義の決定にも用いていた。
- 給事中の桓譚は上疏し、人は目前の事実を軽んじ異聞を尊ぶものだが、先王の教えは仁義と正道を本とし、怪異や虚誕を重んじないと論じた。
- 子貢でさえ性命や天道を詳しく聞けなかったのに、後世の浅学者がそれを通じるはずがない、図書・讖記を増補して人主を欺く者を退けるべきだと強く諫めた。
- 以前、帝が方士の黄白術を論破したことを引き合いに出し、なぜ今さら讖記に惑わされるのかと責めた。
- 帝は不快に思い、霊台の位置を議する際に「讖で決めようと思うがどうか」と問うた。
- 桓譚は長く黙したのち、自分は讖を読まないと答え、その非を繰り返し述べたため、帝は激怒して斬ろうとした。桓譚は叩頭流血してようやく赦され、六安郡丞に左遷され、道中で病死した。
- 後世の評では、桓譚は讖を信じなかったために流転し、鄭興は控えめに言ってやっと免れ、賈逵だけが讖を経義に附会して顕達したとされ、君主の学問判断が惜しまれると論じられている。
南単于の交替
- 南単于比が死去し、弟の左賢王莫が立って丘浮尤鞮単于となった。
- 帝は使者に璽書を持たせて冊立し、璽綬・衣冠・繒綵を与えた。以後これが常例となった。