資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝下 建武 二十三年 47年

春正月 南郡の蛮族反乱

  • 春正月、南郡の蛮が反乱した。朝廷は武威将軍の劉尚を派遣して討伐させ、これを撃破した。

夏五月・秋八月 大臣の死去と後任

  • 夏五月、太司徒の蔡茂が死去した。
  • 秋八月、大司空の杜林も死去した。
  • 九月、陳留の玉況が太司徒に任じられた。
  • 冬十月、太僕の張純が大司空に昇進した。

冬十月 武陵蛮の蜂起と劉尚軍の壊滅

  • 冬十月、武陵の蛮の首長である精夫相単程らが反乱した。朝廷は再び劉尚に一万余の兵を与え、沅水をさかのぼって武谿へ攻め入らせた。
  • しかし劉尚は敵を軽視して深追いし、蛮側は険阻な地形を利用して待ち伏せしたため、劉尚軍は全滅した。

匈奴内部の継承争い

  • 匈奴では、単于の弟である右谷蠡王知牙師が本来は次に左賢王となり、その先に単于となる順番であった。ところが単于は位を自分の子に継がせようとして、知牙師を殺した。
  • 烏珠留単于の子で、南辺八部を率いていた比はこれに強い不満を抱いた。兄弟相承でも父子相承でも、自分こそ立つべきだと考え、単于を疑い始めた。
  • 単于も比を疑い、彼の兵を監督するため両骨都侯を付けた。比は密かに漢へ使者を送り、地図を奉って西河太守に内附を願い出た。
  • 五月の龍城祭の機会に、両骨都侯は比を誅殺すべきだと単于に勧めた。これを弟の漸将王が知って比へ急報した。
  • 比は南辺八部の兵四、五万を集め、帰還する両骨都侯を殺そうとしたが、相手は計画を察して逃亡した。単于は万騎を派遣したが、比の勢力が大きいため戦わずに引き返した。

朱祐の死

  • この年、鬲侯の朱祐が死去した。彼は実直で学問を尊び、将としては降伏受け入れと城邑の安定を重視し、首級の多少を誇らなかった。
  • また兵士の略奪を厳しく禁じたため、不満を抱く者も多かったが、民に害を与えない将として知られた。