資治通鑑漢紀 世祖光武皇帝下 建武 二十四年 48年

春正月 大赦と南匈奴の擁立問題

  • 春正月、天下に大赦が行われた。
  • 匈奴の南辺八部の有力者たちは、日逐王比を呼韓邪単于として立て、五原塞に来て永く漢の藩屏となり、北匈奴を防ぎたいと願い出た。
  • 朝廷で議論すると、多くは天下がまだ安定しきらず、中国も空虚で、夷狄の真意は測りがたいとして反対した。
  • ただ五官中郎将の耿国だけが、宣帝の時の先例にならって受け入れるべきだと主張した。南匈奴を用いれば鮮卑を抑え、北匈奴を防ぎ、辺郡の再建にも役立つという考えである。帝はこれに従った。

秋七月 武陵蛮再反と馬援の出征

  • 秋七月、武陵蛮が臨沅に侵攻したため、謁者の李嵩と中山太守の馬成が討ったが勝てなかった。
  • 馬援が自ら出征を願い出ると、帝は老齢を気の毒に思って初めは許さなかった。だが馬援は甲を着て馬に乗れることを実演し、帝はその壮健さに感心して遠征を命じた。
  • 馬援は中郎将の馬武・耿舒らを率い、四万余で五溪を征討した。
  • 出発に際し、馬援は友人の杜愔に、厚恩に報いて国事に死ねるなら本望だが、権門の子弟が軍中にいて指揮が乱れることだけが心配だと語った。

冬十月 南単于の名乗り

  • 冬十月、日逐王比は自ら南単于を称し、使者を洛陽に送って藩臣としての服属を申し出た。
  • 帝が朗陵侯臧宮に意見を求めると、臧宮は匈奴が飢饉と疫病で分裂している今こそ、五千騎あれば戦功を立てられると述べた。
  • しかし帝は、常勝の将は敵情判断を誤りやすいとして、慎重な姿勢を示した。