資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武二十二年 46年

閏正月・二月 長安行幸

  • 閏正月丙戌、光武帝は長安へ行幸した。
  • 二月己巳、洛陽へ帰還した。

夏五月 日食

  • 乙未晦、日食があった。

秋九月 地震

  • 戊辰、地震が起こった。

冬十月 朱浮罷免と杜林任命

  • 壬子、大司空朱浮が免官となった。
  • 癸丑、光禄勲杜林が大司空に任じられた。

劉昆の逸話

  • もとは江陵令であった陳留の劉昆は、県に火災が起こった際、火に向かって叩頭すると、まもなく火が消えたという評判があった。のちに弘農太守となると、虎が子を背負って河を渡ったとも言われた。
  • 光武帝がその噂を聞いて不思議に思い、杜林に代えて光禄勲に徴した。
  • 光武帝が、江陵で風向きが変わって火が消え、弘農では虎が北へ河を渡ったのは、どんな徳政によるものかと尋ねると、劉昆はただ偶然ですと答えた。左右は笑ったが、光武帝はこれこそ長者の言だと感嘆し、史策に記させた。

青州蝗害

  • この年、青州で蝗害が起こった。

匈奴単于の交代と困窮

  • 匈奴の単于輿が死に、その子の左賢王烏達鞮侯が立ったが、またすぐ死に、弟の左賢王蒲奴が立った。
  • 匈奴の国内では数年にわたり旱魃と蝗害が続き、数千里にわたって草木も絶え、人畜は飢え疫に苦しみ、死耗が半ばを超えた。
  • 単于は漢がこの衰えに乗じることを恐れ、使者を漁陽に送って和親を求めた。光武帝は中郎将李茂を派遣して返答させた。
  • 一方、烏桓は匈奴の弱りにつけこんでこれを破り、匈奴は北へ数千里退き、幕南は空白地となった。そこで朝廷は辺郡の亭候や吏卒を罷め、幣帛で烏桓を招いて降した。

西域諸国の再離反

  • 西域諸国の侍子は長く敦煌に留め置かれ、帰国を思って愁えた。
  • 莎車王賢は都護が来ないのを見抜くと、鄯善を破り、さらに龜兹王を殺した。
  • 鄯善王安は上書して、あらためて子を入侍させたい、都護を再び置いてほしいと願った。
  • 光武帝は、今は使者も大軍も出せず、諸国が力の及ばぬなら東西南北、自ら便宜に従うほかないと返答した。
  • こうして鄯善・車師はふたたび匈奴に付いた。

班固の論

  • 班固は、武帝が匈奴と西域・南羌の連携を断つため河西四郡を置き、西域を開いたことには当時の財力・兵力という条件があったが、その後は苑囿・宮室・贈答・遠征費が膨大となり、塩鉄・酒酤の専売や諸税を重ねても足りず、凶年には盗賊が起こり、ついに輪台放棄と哀痛の詔に至ったと振り返る。
  • また、西域は地理的にも遠隔・険難で、諸国は分立して統一されず、匈奴も馬畜や旃罽を得るだけで完全には統率できない。漢にとっても、得ても大益なく、棄てても大損はないと論じる。
  • そのうえで、建武以来、西域諸国が漢の威徳を慕って内附を望み、たびたび都護設置を請うているのに、光武帝が古今を遠く照らして時宜にかなうよう辞して許さないのは、大禹が西戎を叙し、周公が白雉を辞し、太宗が千里馬を返したのと同じ義であると称賛した。