資治通鑑漢紀三十五 世祖光武皇帝中之下 建武十三年 37年
春正月 侯霸の死と献上品の節減
- 庚申、大司徒の侯霸が薨じた。
- 戊子、光武帝は郡国からの珍味献上を、太官では今後受け取らせないと命じた。遠方の産物で宗廟に薦めるものだけは旧制どおりとした。
- 異国から千里を走る名馬と百金の価値がある宝剣が献上されたが、剣は騎士に賜り、馬は鼓車を牽かせた。光武帝はもとより音楽や珠玉を好まなかった。
夜の狩猟と郅惲の諫言
- あるとき夜遅く狩猟から帰った際、上東門候の郅惲が関門を開かなかった。光武帝が従者に顔を見せさせても、火明かりが遠く確かめられないと言って受け付けなかったため、光武帝は東中門から入城した。
- 翌日、郅惲は、文王ですら遊猟にふけらず、民の負担を正すことを重んじたのに、陛下が昼夜を継いで狩をすれば宗廟社稷をどうするのかと上書して諫めた。
- 光武帝は布百匹を与えつつも、東中門候を参封尉へ左遷した。
二月 匈奴・盧芳への対応
- 捕虜将軍の馬武を虖沱河に駐屯させ、匈奴に備えた。
- 盧芳は雲中を長く攻め落とせず、その将の隨昱が九原を守りつつ盧芳を脅して漢へ降らせようとした。盧芳はこれを知ると十余騎で匈奴へ逃れ、その配下はみな隨昱に帰した。
- 隨昱は洛陽へ出頭して降伏し、五原太守に任じられ、鐫胡侯に封じられた。
宗室諸王の降爵と公侯の再編
- 朱祜は、古く人臣で王爵を受ける例はないと奏上した。
- 丙辰、長沙王劉興・真定王劉得・河間王劉邵・中山王劉茂はみな侯に降爵された。これは同じ景帝の後裔でも、服属関係がすでに疎くなっていたからである。
- 丁巳、趙王劉良を趙公、太原王劉章を斉公、魯王劉興を魯公とした。
- この時、宗室や絶えた国を継いで侯に封じられた者は、合計百三十七人にのぼった。
張純・孔安・姬常
- 富平侯張純について、有司は宗室でない列侯は旧国をそのまま保つべきでないと奏したが、光武帝は長年宿衛した功を理由にこれを退け、富平の半分を食む武始侯に改封した。
- 庚午、紹嘉公の孔安を宋公、承休公の姬常を衛公とした。
三月 新たな三公と吳漢の凱旋
- 辛未、沛郡太守の韓歆を大司徒とした。
- 丙子、行大司空の馬成は再び揚武将軍に戻った。
- 吳漢は蜀から軍を整えて帰還し、宛に至ると、詔で故郷に立ち寄って墓参することを許され、穀二万斛を賜った。
夏四月 大封功臣と武備緩和
- 京城に着いたのち、大いに将士・功臣を饗応し、増邑・改封された者は三百六十五人、外戚恩沢による封侯は四十五人に及んだ。
- 鄧禹は高密侯、李通は固始侯、賈復は膠東侯となり、他の功臣もそれぞれ差等に従って封じられた。死去した者には子孫への加封や支族への改封も行われた。
- 光武帝は長く戦場にあって武事を厭い、天下の疲弊を知っていたので、隴・蜀平定後は緊急の場合を除いて軍事を語らなくなった。
- 皇太子が戦のことを問うと、孔子が陣のことを問われても答えなかった故事を引いて、汝の及ぶところではないと諭した。
功臣の処遇と法物の整備
- 鄧禹・賈復も、光武帝が干戈を収め文徳を修め、功臣に兵を握らせて京師に置きたくない意向を悟り、自ら武装を解いて儒学に親しんだ。
- 光武帝もまた、功臣の爵土を全うさせ、官職上の過失で失わせぬように考え、左右将軍の官を廃し、耿弇らも大将軍・将軍の印綬を上納して、みな列侯として帰第させ、特進・奉朝請を加えた。
- 鄧禹は家内のしつけが整い、十三人の子それぞれに一芸を守らせた。賈復は威重を保って私邸に閉居した。朱祜らは宰相に推したが、光武帝は三公に政務能力を求めていたため、功臣を用いなかった。
- ただし高密侯・固始侯・膠東侯の三侯だけは、公卿とともに国家大事を議することを許され、恩遇が格別であった。
- 光武帝は功臣を抑制しつつも、その小過をたびたび容赦し、遠方の珍物もまず諸侯に分け与えたので、終生誅譴に遭う者がなかった。
- 益州から公孫述のもとにあった楽師・郊廟器・羽葆の車・輿輦などが送られてきて、この時になって朝廷の法物がようやく整った。
文書・賦役の軽減
- 兵革がやみ、天下の政務も少なくなると、文書や賦役はできるだけ簡略にされ、従来の十分の一ほどにまで減らされた。
甲寅 竇融、大司空となる
- 甲寅、冀州牧の竇融が大司空に任じられた。
- 竇融は旧来の臣ではなく、一朝にして功臣たちの上位に立ったことを気にし、朝会や進見のたびに容貌も言辞も過度にへりくだったため、かえって光武帝の親任は深まった。
- 竇融は長く不安を抱き、しばしば爵位辞退を願い出たうえ、子には経学だけを学ばせ、天文や讖緯を見せず、広い封土や王侯の旧国を伝えたいとは思わぬと上疏した。
- さらに内々に退職と帰国を請おうとしたが、光武帝は、以前その意図を知って退出させ、後日の面会では今後その話をするなとあらかじめ命じたので、竇融は重ねて請うことができなかった。
五月 匈奴の河東侵入