資治通鑑漢紀三十四 世祖光武皇帝 建武 十一年 35年
春三月 南陽・章陵行幸
- 光武帝は南陽に行幸し、ついで章陵にも赴いたのち、洛陽へ帰還した。
荊門攻略の準備
- 岑彭は津郷に屯して田戎らをたびたび攻めたが、勝てなかった。
- そこで光武帝は呉漢に誅虜将軍の劉隆ら三将を副え、荊州兵あわせて六万余、騎五千を率いさせて、岑彭と荊門で合流させた。
- 岑彭は数千艘の戦船を整えた。
- 呉漢は水軍の棹卒は糧食を多く費やすので帰すべきだと考えたが、岑彭は蜀兵が強く、ここで減兵してはならないと上書した。
- 光武帝は、呉漢は歩騎戦に熟達しても水戦には通じない、荊門のことは全面的に岑彭に任せると返答した。
閏月 浮橋焼き討ち
- 岑彭は軍中に布告し、浮橋攻撃で先登する者に重賞を約した。
- 偏将軍の魯奇が志願し、激しい東風の中、逆流を衝いて橋へ突進した。
- 反杷鉤に船を取られて退けなくなったが、魯奇は勢いに乗じて死戦し、たいまつを投じて橋と楼櫓を焼いた。
- 風が火勢を助けたため、岑彭は全軍で追撃し、蜀兵は大乱、溺死数千となった。任満は斬られ、程汎は生け捕られ、田戎は江州へ逃げ込んだ。
岑彭の長駆進撃
- 岑彭は劉隆を南郡太守に推挙し、自らは臧宮・劉歆を率いて江関へ突入した。
- 軍中には掠奪を禁じたため、通過する百姓は皆、牛酒を持って迎えたが、岑彭は多くを辞退した。民衆は大いに喜び、争って門を開いて降った。
- 光武帝は岑彭を益州牧に準じて扱い、攻略した郡ではそのつど太守を任命させ、本人が州境を出る際には後続将に太守号を預けて治めさせることを許した。
- 岑彭は江州に着くと、城は堅く糧も多く急攻は難しいと見て、馮駿を留守に置き、自らは進撃を続けた。
- ついで平曲を攻め破って米数十万石を得た。呉漢は夷陵にとどまり、露橈船を整えて後続した。
夏 馬援、隴西を鎮める
- 先零羌が臨洮に侵入したため、来歙は馬援を隴西太守に推薦した。
- 馬援はこれを大破した。
六月 下辨攻略と来歙暗殺
- 公孫述は王元を将軍とし、領軍の環安とともに河池を守らせた。
- 来歙は蓋延らと進んでこれを大破し、下辨を攻略した。
- 勢いに乗じてさらに進むと、蜀側は恐れて刺客を放ち、来歙を刺して重傷を負わせた。
- 来歙は蓋延を呼び寄せたが、蓋延が泣いて顔を上げられないでいると、「虎牙将軍ともあろう者が女や子供のように泣くのか。自分はなおも兵を指揮して公を斬ることすらできるのだ」と叱り、軍務を託した。
- さらに自ら上表を書き、賢者を本とする政治を説き、段襄は骨鯁の臣として任用に値すると推挙したうえ、兄弟たちに過失があれば教え導いてほしいと願って、刃を抜き絶命した。
- 光武帝はこれを聞いて大いに驚き、書を見て涙を流した。揚武将軍の馬成に中郎将事を代行させた。
- 来歙の柩が洛陽へ戻ると、天子は白衣で臨弔し、送葬した。
鮑永・鮑恢の剛直
- 趙王良は来歙の喪を送って夏城門から帰る際、中郎将の張邯と道を争い、門候まで叱責して走らせた。
- 司隷校尉の鮑永は、王良が宗藩の礼を失ったとして弾劾した。王良は近親で尊貴だったが、朝廷はこれによって粛然とした。
- 鮑永は扶風に出向き、更始帝の墓の前では礼を尽くして哭し、またかつて自分を保護した茍諫の墓にも犠牲を供えた。光武帝は当初快く思わなかったが、張湛が、仁は旧恩を忘れず、忠は旧君を忘れないものだと説いたため、帝も納得した。
- 鮑永が扶風鮑恢を都官従事に起用すると、鮑恢もまた強権を恐れぬ人物で、光武帝は「貴戚でさえ二鮑を避けて手を引く」と評した。
秋七月 光武帝、長安に進駐
- 光武帝は自ら公孫述討伐に向かい、長安に駐した。
- 公孫述は延岑・呂鮪・王元・公孫恢に大軍を与えて広漢・資中を守らせ、さらに侯丹に二万余を率いさせて黄石を防がせた。
臧宮・岑彭の蜀中突破
- 岑彭は臧宮に、降卒五万を率いて涪水をさかのぼり、平曲から延岑を防がせた。
- 自分は別働して江州へ戻り、さらに都江を遡って侯丹を奇襲し、大破した。
- そのまま昼夜兼行で二千余里を進み、武陽を抜き、精鋭騎兵で広都へ迫った。成都まで数十里の近さで、風雨のような進軍に蜀地は震え上がった。
- 述はもともと平曲方面の漢軍を迎え撃たせていたため、岑彭が背後へ回ったことに大いに驚いた。
臧宮、沈水で延岑を破る
- 延岑は沈水に大軍を布いた。
- しかし臧宮軍は兵は多くとも食糧が少なく、補給も滞り、降兵たちは散りたがり、郡県も再び様子見に転じていた。
- 臧宮は引き返せば反乱を招くと恐れたところへ、ちょうど帝の使者が馬七百匹を携えて来た。臧宮は勅命を仮用してこれを軍に充て、旗を大いに張り、山に登って鼓譟し、歩兵と騎兵を交えて大軍のように見せた。
- 延岑は漢軍の急到に驚き、臧宮はその機を衝いて大破し、万余を斬・溺殺した。水が濁るほどの惨敗だった。
- 延岑は成都へ逃れ、配下はみな降った。
- 臧宮はそのまま北を追い、十万単位で降伏者を得た。陽郷に至ると、王元も兵を挙げて降った。
公孫述、降伏を拒む
- 光武帝は公孫述に書を送り、禍福を説いて信用の証も示した。
- 述はこれを読んでため息をつき、側近に見せたが、太常の常少、光禄勲の張隆は、天子に降るようなことはありえないと勧めた。
- 述の側近たちはもう率直に進言できず、常少・張隆も憂悶のうちに死んだ。
冬十月 岑彭の暗殺
- 光武帝は長安から帰還した。
- 公孫述は刺客に亡命奴隷を装わせ、夜に岑彭を刺殺させた。
- 太中大夫の鄭興がその軍を預かって呉漢の到着を待ち、到着後に引き継いだ。
- 岑彭は軍律が整い、針の先ほども民に害を与えなかったので、邛穀王の任貴はその威信を数千里に聞き、使者を送って降ろうとした。だが到着時にはすでに岑彭は害されていた。
- 光武帝は任貴の献上物をすべて岑彭の妻子へ与え、蜀人は岑彭を祀る廟を立てた。
武都・羌地の平定
- 馬成らは河池を破って武都を平定した。
- 先零など諸種羌数万は浩亹の隘路に屯して侵掠していたが、馬成と馬援が深入りしてこれを大破し、降った羌を天水・隴西・扶風へ移した。
- 朝臣には、金城の破羌より西は遠く賊も多いので放棄すべきだとの意見もあった。
- しかし馬援は、破羌以西には堅固な城が多く、土地も肥えて灌漑が通じ、もし羌を湟中に残せば害はやまないとして放棄に反対した。
- 光武帝はこれを認め、帰民三千余戸を置き、馬援に長吏の設置、城郭修繕、砦や候所の建設、溝渠の開削、農牧奨励を行わせた。
- さらに塞外の氐・羌も招撫して帰附させ、侯王・君長の号も旧に復した。これにより馬成軍は撤収した。
十二月 呉漢、西上
- 呉漢は夷陵から三万人を率いて江を遡り、公孫述討伐に向かった。
郭伋の進言
- 郭伋が并州牧として赴任する途中、京師を通ると、光武帝は政治の得失を尋ねた。
- 郭伋は、諸官の選任には天下の賢俊を広く用いるべきで、南陽人ばかりに偏るべきではないと答えた。