資治通鑑漢紀三十二 世祖光武皇帝 建武二年 26年
春正月 日食と赤眉政権の混乱
- 正月甲子朔、日食があった。
- 劉恭は、赤眉政権が必ず敗れると見て、弟の劉盆子に璽綬返上の言葉を習わせた。元日の大会でまず自ら、弟を帝に立てて一年近くになるが混乱は増すばかりで、とても成就できそうにないから庶人に戻し、賢者を立ててほしいと訴えた。
- 劉盆子も床を下り、璽綬を解いて叩頭し、官府を設けながら実態は賊のままで四方の信を失っているのは自分が不適任だからだ、自分を殺して責任を取らせてもよい、と涙ながらに辞退した。
- 樊崇ら数百人はみな哀れんで謝罪し、今後は勝手な乱暴をしないと誓って盆子を抱き起こし、再び璽綬を帯びさせた。だが二十日ほどすると、また以前どおり掠奪を始めた。
檀郷賊の平定
- 力子都が配下に殺され、その残党は諸賊と合流して檀郷賊を名乗り、魏郡・清河を侵した。
- 魏郡太守銚期は、大吏李熊の弟李陸がこれに通じていると知り、李熊を呼んで問い質した。李熊は自白して母とともに死を願ったが、銚期は、賊になる方がよいなら母を連れて弟のもとへ行けと言って一度城外へ出した。
- 李熊は弟を説得して鄴西門へ連れて行こうとした。李陸は恥じ入って自殺し、銚期は丁重に葬ったうえで李熊を旧職に戻した。郡中はその威信に服した。
- 帝は呉漢・王梁ら九将軍を遣わし、鄴東の漳水で檀郷賊を大破させた。十余万が降り、さらに杜茂・王梁を留めて魏郡・清河・東郡の諸営堡を安撫させ、三郡は平定された。
功臣封建と制度整備
- 庚辰、諸功臣を列侯に封じた。鄧禹は梁侯、呉漢は広平侯となり、いずれも四県を食邑とした。
- 博士丁恭は、古制では諸侯の封地は百里を超えず、幹を強くして枝を弱くするのが統治の道だとして、四県封建は法に合わないと論じた。帝は、国が滅ぶのは無道のためであって、功臣の土地が多いせいではないと答えた。
- 陰識は陰貴人の兄で、軍功により加封の資格があったが、外戚としてさらに賞を受けるのは天下に示しがつかないと固辞した。帝はこれを許した。
- 諸将に望む封地を言わせると、多くは豊かな県を占めようとしたが、河南太守丁綝だけは本郷を求めた。帝はその志を嘉して新安郷侯に封じた。
- 郎中馮勤は功の軽重、土地の遠近・豊瘠を勘案して封土を配分し、人々を納得させた。帝はその才を認め、尚書の事務を総括させた。また、これまで令史の昇進で充てることが多かった尚書郎に、孝廉出身者を用いる制度を始めた。
宗廟・社稷・郊祀の整備
- 洛陽に高廟を建て、四時ごとに高祖・太宗・世宗を合わせ祀ることとした。社稷は宗廟の右に築かれ、郊兆は城南に設けられた。
赤眉の西進と長安の荒廃
- 長安城中の糧は尽き、赤眉は珍宝を積み出したうえで宮室や市街に大火を放ち、殺掠をほしいままにしたため、長安には人影もなくなった。
- その後、赤眉は西へ向かい、南山沿いに城邑を掠めつつ安定・北地へ入った。
- 鄧禹は南下して長安に入り、高廟を拝し、十一帝の神主を収めて洛陽へ送った。また園陵を巡察し、守衛の吏卒を配置した。
真定王劉楊の誅殺
- 真定王劉楊は、「赤九の後は癭楊が主となる」という讖記を作って流し、自ら首の瘤をもってその予言に当てはめ、綿曼賊とも通じていた。
- 帝は騎都尉陳副・游撃将軍鄧隆を徴しに遣わしたが、劉楊は城門を閉ざして応じなかった。そこで前将軍耿純を幽州・冀州巡察の名目で派遣し、密かに捕縛を命じた。
- 耿純は真定王家の縁者だったため、劉楊は疑わず兄弟とともに来訪した。耿純は礼を尽くして迎え入れ、皆が中へ入ったところで戸を閉じ、一族を誅した。城外に軽兵を連れていた兄弟も動けず、真定は震え上がった。
- 帝は、まだ謀反が表面化しないうちに誅したことを哀れみ、その子の劉徳を改めて真定王に封じた。
修武行幸と鮑永・馮衍の帰順
- 二月己酉、帝は修武に行幸した。鮑永と馮衍は更始の滅亡を確かめて喪を発し、印綬を封じ、兵を解散し、幅巾姿で河内に赴いて帰順した。
- 帝は鮑永に兵衆の所在を尋ね、鮑永は、更始に仕えてこれを全うできなかったのを恥じ、兵をもって富貴を求める気はないから解散したと答えた。帝はその言が大きすぎるとして内心喜ばなかったが、のちに鮑永は功を立てて用いられた。
- 馮衍はついに退けられたが、鮑永は高祖が季布の罪を赦し、丁固の功を誅した例を引いて慰めた。馮衍は、故主への節義を示せば新君がそれを重んじるはずだと考えるのが人情だと語り、道を守る臣は死を恐れないと述べた。
王梁の処断と宋弘の起用
- 大司空王梁はたびたび詔命に背いたため、帝は怒って尚書宗広に節を持たせ、軍中で斬るよう命じた。だが宗広は檻車で洛陽へ送致し、帝は到着後に赦して中郎将とし、箕関を守らせた。
- 壬子、太中大夫宋弘を大司空とした。宋弘は桓譚を議郎・給事中として推挙した。
- 帝が桓譚の華やかな琴の音を好むと、宋弘は不快に思い、桓譚を府に呼び出して席も与えず、主君を正道に導くべきなのに鄭声に耽らせるのかと叱責した。大宴会で帝が桓譚に琴を弾かせた際、桓譚が平常の調子を失ったので、帝が理由を問うと、宋弘は離席して、自分が推薦したのに忠正ではなく宮廷を俗楽に耽らせたのは自分の罪だと謝った。帝は態度を改めて謝罪した。
- 湖陽公主が新たに寡となると、帝は朝臣の中から意中の人物をそれとなく探った。公主は宋弘を挙げた。帝が宋弘に「身分が上がれば交友も妻も替えやすいというのは人情か」と問うと、宋弘は「貧賤時代の友は忘れてはならず、糟糠の妻は堂から下ろすべきではない」と答えた。帝は公主に「この話はまとまらない」と告げた。
彭寵の反乱
- 劉秀が王郎討伐をした際、彭寵は突騎を出し、糧食輸送も絶やさず大功があった。だが帝は薊での接遇が彭寵の望みを満たさず、即位後も呉漢・王梁は三公になったのに自分だけ賞が薄いと、彭寵は強い不満を抱いた。
- 北方では漁陽が比較的無傷で、旧来の鉄官もあり、彭寵は穀物交易によってますます富強になった。
- 幽州牧朱浮は俊才をもって風教を振興しようとし、州の名士や旧吏を多く幕府に招き、その家族にまで諸郡の倉廩から給付した。彭寵は、天下未定なのに官属を増やして軍の実を損なうべきでないとして従わなかった。
- 朱浮は性急で自負心が強く、彭寵もまた剛愎だったため、相互の怨みは積み重なった。朱浮はしばしば密奏して彭寵を讒言し、帝もそれを意図的に漏らして威圧した。
- ついに彭寵召還の詔が出たが、彭寵は朱浮も同時に召すよう願って許されず、ますます疑いを深めた。妻も、四方がまだ各自雄を争っているのに漁陽という大郡を捨てて出頭する必要はないと強く勧めた。
- 親しい吏たちも朱浮を怨み、誰も上京を勧めなかった。帝が従弟の子后蘭卿を説得に遣わすと、彭寵はこれを留め置き、ついに兵を挙げて反乱した。二万余を率いて薊の朱浮を攻め、耿況にもしきりに使者を送り、恩賞の薄さを訴えて味方に引き入れようとしたが、耿況は応じず使者を斬った。
西方戦線 延岑・公孫述・劉嘉
- 延岑は再び叛いて南鄭を囲み、漢中王劉嘉を敗走させたのち漢中を領したが、武都で李宝に破られて天水へ逃れた。
- 公孫述は侯丹に南鄭を取らせた。劉嘉は散兵を集めて数万とし、李宝を相として武都南で侯丹を攻めたが利がなく、河池・下辨に退き、さらに延岑と戦った。延岑は散関を北に出て陳倉へ至ったが、劉嘉に追撃され敗れた。
- 公孫述はさらに任満を閬中から江州へ下し、扞関を押さえさせ、ついに益州全域を手中に収めた。
三月 諸将の南方攻略開始
- 辛卯、帝は洛陽へ還った。三月乙未、大赦があった。
- まだ南方に降っていない更始系の大将が多かったため、帝は諸将にどこを攻めるべきか問うた。檄を地に叩きつけ、「郾が最強、宛がその次だ。誰が行くか」と促した。
- 賈復がすぐに郾を請け負い、帝は「執金吾が郾に当たるなら心配はない」と笑って任せ、大司馬呉漢には宛を攻めさせた。
- 賈復は郾を破って尹尊を降し、さらに東へ進んで更始の淮陽太守暴汜を降した。
劉永・蘇茂・呉漢の戦い
- 夏四月、虎牙大将軍蓋延は馬武ら四将軍を率いて劉永を攻め、これを破って睢陽に包囲した。
- 以前に朱鮪とともに降っていた蘇茂が再び叛き、淮陽太守潘蹇を殺して広楽に拠り、劉永に臣従した。劉永は蘇茂を大司馬・淮陽王とした。
- 呉漢が宛を攻めると、宛王劉賜は更始の妻子を伴って洛陽に降り、慎侯に封ぜられた。
宗室諸王の封建と立后・立太子
- 帝の叔父の劉良、族父の劉歙、族兄の劉祉らが長安から来朝した。甲午、劉良を広陽王、劉祉を城陽王とした。
- 兄劉縯の子の劉章を太原王、劉興を魯王とし、更始の三子の劉求・劉歆・劉鯉は列侯に封じた。
- 鄧王王常も降り、帝は大いに喜んで、これで南方は憂えなくなったと言い、左曹に任じて山桑侯に封じた。
- 五月庚辰、族父の劉歙を泗水王に封じた。
- 帝は本来、性質の穏やかな陰麗華を皇后に立てたいと考えていたが、陰貴人は郭貴人にはすでに子があるとして固辞した。六月戊戌、郭氏を皇后とし、その子劉彊を皇太子に立て、大赦を行った。
- 丙午には泗水王の子劉終を淄川王に封じた。
賈復と寇恂
- 秋、賈復は南下して召陵・新息を平定した。
- ところが賈復の部将が潁川で人を殺したため、潁川太守寇恂はこれを捕えて獄につなぎ、市で処刑した。草創の時期で、軍営の犯法は大目に見られることも多かったので、賈復は面目を失ったと感じた。
- 帰路に潁川を通る際、賈復は寇恂に会ったら自ら剣で斬るとまで言った。寇恂はそれを知ったが、国家のために私怨を避けるべきだとして正面衝突を避け、県々に命じて酒食を十分に備えさせた。
- 賈復軍が境内に入ると将士は皆酔い、寇恂は表向き病を称して引きこもったので、賈復は追撃できずそのまま通過した。寇恂は事情を上奏し、帝は両者を召して「天下未定なのに二頭の虎が私闘してはならない」と仲裁した。二人は同席して歓を尽くし、ついには同車して去るほど和解した。
五校の撃破と北方情勢
- 八月、帝は自ら諸将を率いて五校を討ち、丙辰に内黄へ幸した。羛陽で五校を大破し、五万を降した。
- 彭寵討伐では、鄧隆が潞南に、朱浮が雍奴に陣し、互いの距離は百里離れていた。報告を読んだ帝は、これでは救援が間に合わず北軍は敗れると怒ったが、果たして彭寵は軽兵で鄧隆を襲い、大破した。朱浮は遠くて救えなかった。
劉永の再敗
- 蓋延は数か月の包囲の末、睢陽を落とした。劉永は虞へ逃れたが、住民に母や妻を殺され、自身は数十騎で譙へ奔った。
- 蘇茂・佼彊・周建が三万余で劉永救援に来たが、蓋延は沛西でこれを大破した。劉永・佼彊・周建は湖陵に保ち、蘇茂は広楽へ逃げた。蓋延は沛・楚・臨淮を平定した。
青徐・南陽の動揺
- 帝は伏隆を青徐二州への使者とし、郡国に降伏を勧めさせた。劉永敗北を聞いた群盗は恐れて請降し、張歩も掾の孫昱を随行させて上書し、鰒魚を献じた。
- 堵郷の董訢が宛で反乱し、南陽太守劉驎を捕えたが、揚化将軍堅鐔が宛を奪回し、董訢は堵郷へ逃れた。
- 呉漢は南陽諸県を巡ってしばしば侵暴を働いたため、破虜将軍鄧奉は郷里新野が荒らされたことに怒り、ついに反乱して呉漢軍を破り、淯陽に拠って諸賊と結んだ。
秋九月以後 弘農・関中・赤眉の苦境
- 九月壬戌、帝は内黄から陜へ還った。蘇况が弘農を破ったため、景丹を討伐に向かわせたが、景丹は死去した。征虜将軍祭遵が栢華・蠻中の賊を討って平定した。
- 赤眉は西上して隴へ入ろうとしたが、隗囂が楊広に迎撃させて破り、さらに烏氏・涇陽の間でも追撃して敗走させた。大雪のため坑谷は埋まり、凍死者が続出したので、赤眉はまた長安方面へ引き返した。
- その途中、諸陵を掘り返して宝物を奪い、玉匣に納められた遺体まで暴き、ついには呂后の屍にも辱めを加えた。
- 鄧禹は郁夷で赤眉を攻めたが敗れ、雲陽へ退いた。赤眉は再び長安に入った。
延岑・劉嘉・鄧禹
- 延岑は杜陵に屯しており、赤眉の将逢安がこれを攻めた。鄧禹は赤眉の精兵が外に出ている隙を突いて長安を襲ったが、謝禄の救援が到着して敗走した。
- 一方、延岑は逢安を大破し、十余万が死んだ。廖湛は赤眉十八万を率いて漢中王劉嘉を谷口で攻めたが、劉嘉は大勝して廖湛を手ずから斬り、雲陽に進んで穀物を得た。
- 劉嘉の妻兄である来歙は帝の姑の子でもあり、帝は鄧禹に命じて劉嘉を招かせた。劉嘉は来歙を介して鄧禹に降り、李宝が傲慢だったので鄧禹はこれを斬った。
冬十一月 岑彭・王常・馮異
- 十一月、廷尉岑彭を征南大将軍とした。
- 帝は大会の場で王常を指して、この人物は下江の諸将を率いて漢室を助けた真の忠臣だと称え、その日のうちに漢忠将軍とし、岑彭・朱祜ら七将軍とともに鄧奉・董訢討伐に向かわせた。
- 岑彭らは先に堵郷を攻めたが、鄧奉が救援に来て、朱祜は敗れて捕えられた。
- 銅馬・青犢・尤来の残党は孫登を天子に立てたが、孫登は楽玄に殺され、その五万余は降伏した。
- 鄧禹は馮愔の反乱以来、威名が衰え、食糧も乏しく、戦ってはしばしば不利となり、帰附者も日ごとに離れていった。三輔では赤眉・延岑の乱暴に対抗して、大姓たちがそれぞれ兵を擁していたが、鄧禹にはこれを統御できなかった。
- そこで帝は偏将軍馮異を派遣して鄧禹に代わらせた。河南まで自ら送って、「降る営堡は首領だけを京師へ送って民は農桑に戻し、寨壁は破って再集合させるな。征伐の目的は土地や城の略奪ではなく、平定と安集にある」と細かく戒めた。馮異はこれを受けて西進し、行く先々で威信を布き、多くの群盗を降した。
- 司馬光は、武王の兵は威徳を布いて民を安んずることに志したという古語を引き、光武が関中を取る際の方針もまさにそれにかなうと称えている。
- あわせて帝は鄧禹に帰還を命じ、「窮した賊と鋒を争うな。赤眉は食糧がないから、いずれ東へ来る。こちらは飽食で飢えを待ち、安逸で疲労を待ち、杖を折って打つように容易に制せる」と諭し、軽率な進兵を禁じた。
張歩への対応と宗室復封
- 帝は伏隆を光禄大夫とし、再び張歩のもとへ遣わして東萊太守の印綬を与え、新任の青州牧守・都尉とともに東へ向かわせた。地方の令長以下についても、伏隆にその場で任命権を与えた。
- 十二月戊午、王莽により絶たれていた宗室列侯のうち、旧国を回復できる者はみな旧封に復させた。
三輔大飢饉と赤眉東帰
- 三輔では大飢饉となり、人が人を食うほどで、城郭は空となり、白骨が野を覆った。残民はあちこちで営保を作り、壁を固めて野を空にした。赤眉は掠めても得るものがなく、ついに東へ引いた。兵はなお二十余万あったが、道々でさらに散っていった。
- 帝は侯進らを新安に、耿弇らを宜陽に置き、その帰路を押さえさせた。賊が東へ向かえば宜陽軍を新安に合流させ、南へ向かえば新安軍を宜陽に合流させるよう命じた。
- 馮異は華陰で赤眉と遭遇し、六十余日にわたって対峙し、数十回交戦してその将卒五千余を降した。